桶 狭間 の 戦い 明智 光秀。 明智光秀(山崎)

桶狭間の戦いの謎~じつは信長の奇襲攻撃ではなかった?

桶 狭間 の 戦い 明智 光秀

「麒麟がくるは、今後の展開の都合だけで、史実にないようなシーンを入れてくるのか、NHKともあろうもんが、そんなことして許されるのか?」 もちろん許されます。 大河は歴史ドキュメンタリー教養番組ではなく、娯楽ドラマです。 面白くするために最大限の努力をします。 そういうものだと思って見ましょう。 明智光秀が若い頃どこで何をしていたか、まったく史料はありません。 美濃生まれなのかどうかすら、確証はありません。 当然、堺に行ったり京に行ったり尾張に行ったり越前にいったり、ここまでドラマで十兵衛がやってることは、すべて創作です。 主人公は、史実では何をしていたかよくわからない「自由」な若いうちに、なるべくあちこち歩き回って、なるべく多くの人物に会って、終盤にむけて伏線を張りまくっておく、これがお役目です。 軍師官兵衛だって真田丸だって直虎だってせごどんだって、みんなそうだったでしょう? 嘘だ、インチキだ、みんな大河を信じてはいけない、そんなこと言ってるひとはドラマってものを知らないのです。 「歴史マニア」なんて日本人のなかで何パーセントもいません。 しかし大河ドラマはNHKの看板なので、世間から糾弾されない程度の視聴率を確保するためには、当然、歴史にたいして興味も知識もない老若男女が楽しめる仕掛けを、随時工夫しなければならないんです。 しかし一方で「このドラマはフィクションです、歴史ではありません」とは、口が裂けては言えないのが、NHKさんのツライところです。 そんなこといったら「大河は歴史のお勉強になるんだ」と思って家族で見てる国民を裏切ることになりますから。 そのへんの、制作側の苦労をあれこれ推察して楽しむのが、歴史マニアが大河を楽しむときの若干ひねくれた見方です。 本来は、大河ドラマは「エンターテインメントとして出来がいいかどうか」のみで評価すべきものです。 史実だなんだといちいち文句を言いなさんな。 正しい歴史が大好きで、それを汚すことは許せない、っていう人は、大河ドラマなんか最初から無視するしかないでしょう。 光秀が桶狭間のころ何をしていたか、というのは、不明です。 ただ、最近すこしづつ発見された史料では、幕府(足利義輝)の家来として籠城していたメンバーに明智の名前があるので、たぶんこれじゃないか、と言われています。 たぶんですけど、このころの光秀は、幕府を立て直せば日本はよくなると思って現場の末端でがんばっていたんじゃあないかなあ、と思われます。 尾張と駿河の大名同士の地方予選を見に来る余裕なんかなかったんじゃないでしょうか。 でも、そんなことではドラマになりませんから。 「麒麟がくる」は、結局、どうして明智光秀は、いったんは日本を平和にするための同志と見込んだ織田信長を、最終的には討とうと決意するに至るのか、どこに齟齬があったのか、最期に目指す理想にどんな決定的な違いができたのか、これを一年かけて視聴者の皆さんと一緒に探っていきましょう、という構成になっています。 ですから、織田信長が飛躍の第一歩となった桶狭間は、何がなんでも光秀は見ておかなければなりません。 見届けた上で、ミックスゾーンで「これから目指すものは何ですか、どのようにして麒麟を呼ぶつもりですか」とインタビューをしなければなりません。 何故ならそれが、中断明けの「第二部」のテーマになるはずだからです。 最近の大河ドラマの基本ルールでは、主人公が見ない事件は描けず、主人公が会わない人物は登場できません。 そういうお約束になってます。 だから、光秀は何が何でも桶狭間の現場に駆けつけねばならず、そのためには自由に動けるフリーな立場でなければならず、であれば朝倉の家臣にも幕府の家臣にもなるわけにもいかず、かといって母や妻子を連れて無一文で放浪しているというのも無理があり、しょうがないから「朝倉の城下に住みながら身分は浪人」なんていう、まあ言ってしまえばかなり不自然で無理なポジションに設定されているのでしょう。 史実なのか、証拠があるのか、っていえば、全然ありません。 でも、ドラマの筋立ての必要性から言えば、かなりいいセンの創作ではないかな、と私は思います。 史実がどうだったか、は、知りません。 桶狭間の戦いは、永禄三 1560 年五月十九日に起きました。 そして、斎藤道三が討ち死にした長良川の戦いは、弘治二 1556 年四月二十日に起きました。 定説通りに明智光秀が越前朝倉家を頼ったとすると、この弘治二 1556 年四月二十日以降ということになります。 「今度 このたび 竹の身上のことについて馳走してくれてありがたい。 だから、百石の知行を与える」 と書かれています。 宛名の服部七兵衛尉は、越前守護代の前波 桂田 長俊の家臣と考えられています。 どうやら、服部七兵衛尉が光秀の身内と思われる「竹」という人物を助けてくれたようです。 この事から考えると、光秀は越前の長崎称念寺門前に居住していたと考えられます。 その場所は、現福井県坂井市丸岡町長崎となります。 なお、光秀がそこで何をしていたのかは分かりません。 それは、誰にもわからないんです。 もう少しあとになったら光秀は織田信長の家臣になるのですが、 それよりも前のことについてはほとんど記録が残っていないんです。 実は、ここまでのこと(第一回から桶狭間の戦いまで)で描かれていたストーリーは 歴史的な事実じゃなくて、 すべて作者の想像(創作)なんです。 フィクションなんです。 もっというと、すべてウソなんです。 そもそも明智光秀については、 いつ、どこらへんで生まれたのかすらわかっていません。 織田信長に仕える少し前くらいから少しずつ記録が残っていて、 足利義昭がまだ将軍じゃなくて諸国の大名を頼っていたころに 義昭に仕えていた時期もあるということまではわかっています。 また、 朝倉義景の家来であったかどうかまでははっきりしませんが、 少なくとも朝倉氏の本拠である一乗谷にいたことがあるのもだいたいわかっています。 でも、それ以上のことはほとんど謎なんです。

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明智光秀(山崎)

桶 狭間 の 戦い 明智 光秀

NHKで放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)は、放送一時休止前、最後となる第21回「決戦!桶狭間」が7日に放送された。 「桶狭間の戦い」のクライマックス、今川義元()が毛利新介()に討たれたシーンは、ワイヤーアクションやらVFXやら、あらゆるテクニックを総動員し、計算しつくされた映像を作り上げたが、桶狭間からの帰り道、明智光秀()と織田信長()の夕日映えするシーンはロケ撮影。 天が『麒麟がくる』に味方したとしか思えないことが起きていたという。 信長と義元が対決する大一番の戦に、かかわりのない光秀だが、「信長から目を離すな」という斎藤道三()の言葉が忘れられず、越前から馬を走らせ尾張・清須城に駆けつける。 戦に勝利し、帰還する信長軍を道沿いで待ち構えていた光秀。 気づいた信長は光秀に「水を所望したい」と馬を降り、「勝ったぞ」と報告。 「お見事でございました」という光秀に「褒めてくれるのか!」と喜ぶ信長。 「また会おう」と去っていく信長に光秀は「今川を倒し、次は何をなされます」と尋ねる。 信長の答えは「美濃を倒す。 美濃は帰蝶の里じゃ。 美濃を取って帰蝶を喜ばせてやる」と。 演出を担当した一色隆司氏は「このシーンをロケでやろうとなった時に、ロケ場所を探してもらった制作部には、夕景になり、できれば太陽を背負いたい…といっておりました。 あと、できれば上り坂だとうれしい…と。 ほかにもいろんなシーンを撮影しなければならないので、本当に実現できるかはともかくとして、そういうお願いをしてロケ場所を探してもらいました」と明かす。 イメージどおりの夕日を背負える上り坂が見つかり、ロケを敢行。 「スケジュールも日の入りに向けてこのシーンを撮影するように組み立てもらいました。 信長と光秀の今後のターニングポイントとなる大切なシーンだったので、わがままを言わせてもらいました」と一色氏。 下見の時は小雨交じりの曇天で、本当に日が沈むのか確認することができなかったそうだが、「桶狭間の戦いの撮影時も前半は雨で、後半は日が差すなど天気に恵まれていたのですが、このシーンも美しく晴れました。 現場に行って天を仰いでありがとうといったのを覚えています。 とはいうものの、当日は、低気圧の影響で、快晴だったもののものすごい風で背景や周りの木々が絶えず揺れたり、役者さんは目を開けているのも大変というぐらい大変な撮影となりましたが、映像的にはそのおかげで美しく撮れたと思います」と、明かしてくれた。

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桶狭間の戦いとは?織田信長の名を世に売り出した出来事!

桶 狭間 の 戦い 明智 光秀

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年10月) 桶狭間の戦い (愛知県豊明市) 戦争: 年月日:3年() 場所:尾張国知多郡桶狭間 結果:軍の勝利、の討死 交戦勢力 織田軍 今川軍 指導者・指揮官 戦力 3,000 - 5,000人(奇襲を実行したのは2,000人) 25,000 - 45,000人(諸説あり。 また織田軍に直接対峙したのはこのうち5,000 - 6,000人) 損害 不明 3,000人余(『』『』) 2,500人(『』『』) 3,907人(『』)• 合戦の経過 [ ]• 文中の( )の年は、月日は部分を除き全て、の長暦による。 合戦以前の情勢 [ ] 末、駿河国守護のは東海地方において勢力を拡大し、後を継いだ今川義元はを本拠とし駿河・に領国を形成する。 また、の 、のとを締結。 西方の・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。 尾張国では・の家臣で織田氏のである織田家が成長。 、と二代にわたり領土を広げ、今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って争うようになる。 西三河を支配していた国衆であるが当主の相次ぐ横死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、11年()の第一次では織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。 しかし、天文17年()の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。 翌年、今川方が織田方の三河進出の拠点となっていたしたことによって、織田氏の三河進出は挫折に終わった。 さらに天文20年()には織田信秀が病没、後継のとその弟・信勝(後の)間で内紛が起こった。 この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して、城(それぞれ・)を守るが今川方に投降。 加えてのによって尾張東南の(愛知県名古屋市緑区)、(沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ちた。 この4城は尾張中心部とを分断する位置にあった。 開通以前の知多半島は不毛地帯であった。 知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。 しかしながら東岸を占める海運の要地であり、商業港であるを支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。 尾張西南のも今川方に攻略されており、伊勢湾海域のが徐々に侵略されつつあった。 織田氏も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。 1554年には知多の領主であるを支援して今川方のを攻め落とした。 笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には・・を、大高城の周辺には・を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断した。 合戦までの経過 [ ] このような情勢の下、永禄3年()5月12日、今川義元は自ら大軍の指揮を執り駿府を発ち、尾張を目指してを西進した。 ()、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌()夜、松平元康()が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城にを届けさせた。 一方の織田方はにするか、出撃するべきかで軍議が紛糾していた。 翌()3時頃、松平元康とは織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。 前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、『』を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発。 衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、に到着。 その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。 10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。 一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将のは討死した。 鷲津砦では篭城戦を試みたが、が討死、は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。 大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。 一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に以下500人余りを置き、2,000人の兵で出撃。 鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。 桶狭間の合戦 [ ] 『尾州桶狭間合戦』(画) 頃、中嶋砦の前衛に張り出していた、ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。 しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。 義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。 13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。 『』には「石水混じり」と書かれているため、だった可能性がある。 織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。 今川軍の総勢は2万人であったとされるが、当地は今川方からすれば支配地ではないためその中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれ、加えて今川方は兵を分散させていたこともあり義元を守る実兵力は5,000人から6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。 『』によれば、義元は輿 を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長のに追いつかれる。 義元はを返り討ちにしたが、によって組み伏せられ、討ち取られた。 『』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。 総大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。 江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・所蔵の『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人余りだった。 また、書上によると、佐々木方()が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという。 合戦後の情勢と影響 [ ] 今川家の実質的な当主のや、、、、、などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。 を率いて今川方として参戦していた尾張の土豪、は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。 大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、(松平家)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。 前途を悲観した元康は祖先の墓前でして果てようとした。 その時、当寺13代が「」を説き 、元康は切腹を思いとどまった。 そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し、を退散させた。 以来、元康はこの言葉をとして掲げるようになる。 こうして元康は今川軍の城代が捨てて逃げた三河にたどりついた。 尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、()にを攻略してを敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。 しかし鳴海城は城将・以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。 元信は織田信長と交渉し、今川義元のと引き換えに開城。 駿河に帰る途上にある三河を攻略してを討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国したが、信近の兄のはただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていたも奪還した。 一連の戦いでから尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め 、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。 しかし元康は義元の後を継いだが義元の仇討の出陣をしないことを理由に 、今川氏から完全に離反し、永禄5年()になって氏真に無断で織田氏と講和した()。 以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。 また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後はのとの戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。 の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、やと敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎()を大きく勢い付かせることとなり、やらが反乱を起こすなど諸侯の多くが謙信に与し、やに繋がっていった。 さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻()が開始される。 信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子のに嫁いでいるなど関係は良好となった。 以後、信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏ので関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。 参戦武将 [ ] 織田軍 [ ] 本隊 [ ]• (総大将) 合戦の実態をめぐる議論 [ ] 桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、様々な議論を呼んでいる。 今川軍の総兵力 [ ] 今川氏には家臣団編成の実態を知る分限帳・軍役帳が伝存しておらず動員可能兵力を想定することは困難であるが、『』においては 四万五千、の『信長記』には 数万騎と記し、そのほか後代の編纂資料においては『』には 二万余、『』には 三万有余、『』『』『』などには 四万余、『』は『信長公記』に基づき 四万五千、『』には 五万余といった数字を記している。 現在一般的なのは、前の編纂『日本戦史 桶狭間役』にある 二万五千であるが、近年には、など、による近世初頭の今川領の総を元に、二万五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。 また、戦国大名の軍事行動においては対外勢力への備えとして相備衆を残存させることが一般的で、実際の合戦における兵力は最大動員可能兵力より少なくなる点も留意される。 しかしながら、今川は・の、・・のとは同盟関係にあり、一方で織田はの斉藤とは敵対関係にあったため、この面では今川にとって状勢はかなり有利であった。 それに加えて、・・の3国のほか、の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえるに過ぎない織田とは、隔絶した差があったように思われがちである。 ただし、上述の通り尾張の南半分は知多半島の不毛地帯であり、逆に尾張の北半分はのであった。 実際にはその支配領域から想像されるほどには農業生産性、ひいては動員可能兵力に差がある訳ではなかった。 しかし、尾張の国力を信長の動員力と考えるのは適切ではない。 信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。 本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党ののように今川方についた。 このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだったと考えられる。 いずれにせよ上記にあるように、義元の周辺にいて信長軍に直接対峙した兵力はせいぜい多くても5,000人程度であり、2,000人の精鋭を引き連れた信長軍と比べてそう大きな相手というわけでもなかった。 もちろん信長の引き連れた2,000人も、その当時に信長が動員できる全兵力ではなく、一部に過ぎない。 武田・北条の援軍は加勢していたか [ ] 今川義元は武田信玄・北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結んでおり、軍事同盟である以上、義元の対織田戦に武田氏や北条氏がどう対応していたのか?という問題が浮上してくる。 その中で丸島和洋は『甲陽軍鑑』における桶狭間の戦いの記述が頻出詳細であることに注目している。 加えて、桶狭間の戦いから1か月後の6月13日付で武田信玄が岡部元信に書状を送り、その武勇を称えると同時に氏真に対する「侫人の讒言」があることを憂慮する内容となっていることを指摘し、桶狭間の戦い直後の今川家中で武田氏に対する不満が高まっていた(氏真に信玄への不満を述べる者がいた)のではないかとしている。 丸島は武田氏が(恐らく北条氏も)今川軍に援軍を出すなどの支援行為を行っていたものの、桶狭間の戦いにおける武田氏の援軍の働きぶりに戦後の今川家中において不満や不信感を抱かれたのではないか、と推測している。 義元の尾張侵攻の理由 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2009年5月) 長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は、すなわちに入っての政権を掌握するためだったと考えられた。 編纂のの『重修真書太閤記』(5年:~5年:1858年)では、の記述が見える。 しかしながら義元は、今川家を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという冒険的決断をしたとするには極めて難がある。 更に、歴史的に今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期があり、尾張そのものに単なる隣国ではなく今川氏の旧領としての意識があった可能性が強い(尾張守護への補任)。 最近の研究では、尾張は今川一門(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(の今川氏)が那古野城を構えていた。 義元の弟であるは、この今川一門の家に養子入りし、家を継いだ。 は織田に奪われ、そこで信長は生まれた。 信長は後にのを奉じて京周辺の支配や地方大名の紛争を調停する天下人の役割を間接的に担い、甲斐のが年間に行ったは上洛が意図されていた可能性が考えられているが 、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。 仮に信長が上洛の名分に利用したように、やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針から見て、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。 実際、義元が永禄2年()に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。 また、上洛が目的であるならば、事前にのや南近江の などに協力を要請するはずであるが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であったと義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。 ちなみに合戦の直前に、織田信長は僅かな供を連れて足利義輝に謁見するという形での上洛は行っている。 既にの節で述べたように、当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。 したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている。 久保田昌希は今川氏発給文書を分析して、の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年()の出陣は西三河の確保が目的とする。 埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。 今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ。 大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。 尾張攻撃説• 伊勢・志摩制圧志向説• 尾張方面領土拡張説• 旧名古屋今川領奪還・回復説• 鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説• 三河・尾張国境の安定化説 その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている。 また小林正信は義元の出兵をを推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。 将軍・足利義輝を支持するが信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。 その後のも、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた。 合戦場と奇襲の問題 [ ] 桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。 桶狭間の戦いの経緯については『』、または『信長公記』を発展させた『信長記』において具体的に著述されているが、双方の記述には多くの相違が見られる。 一般的には『信長公記』が記録性が強く、『信長記』は甫庵自身の史観による改竄が見られ史料価値は低い。 ただし太田牛一も合戦の実情を直接見聞したという確証はなく、『信長公記』における桶狭間合戦もの下で義元の敗死を著述しており、牛一自身の史観が反映された著述であると考えられている。 合戦場 [ ] 「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に以降「桶狭間の戦い」という名称が上で定着し、の学校教育を通じて全国的に知られている。 「桶狭間」の地名は現在、行政的にはの有松町(旧・)にとして残っており、この行政地名はの桶狭間村を継承したものである。 名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て、今川方の最前線である大高城に至る。 名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣であるが戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。 一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にあるには、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。 ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道(鎌倉街道)からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。 ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『』)にも現れる。 ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では今川義元は「桶狭間山」に本陣を構えたと記録されている。 「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。 2年()の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、元年()の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。 一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村の辺りにある丘を図示したものが見られる。 こうした絵図の中の「桶狭間山」がの太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「桶狭間山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。 また『信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されている。 田楽狭間の場所については、『』には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という記述が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市周辺に大字として残っている。 また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば、当時の鎌倉街道周辺の窪地はこの地を置いて他にないことになる。 しかしながら、窪地や深田ではないが、江戸時代からの頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の名が存在していたとされる地(現在の地番は緑区桶狭間北)があり、ここに比定される説もある。 以上のように、同時代の史料からは知多半島から伸びる山地と伊勢湾に繋がるにより形成された丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定できない。 何れにしろこれらの地形は、兵数の優位を押し下げ、また敵の発見を遅らせる効果を持っており、今川軍に対して不利に働いた。 教授のは、「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64. 7mの地点と特定し(この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。 また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる)、織田軍2,000人と今川軍5,000人がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。 小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市の方で戦死したのではないかとしている。 が入手した『11年道中日記』(1840年。 甲斐国南田中村(現・一宮町)田中伝左衛門著)には「桶はざま。 往来より左の方、半丁(54m)ばかり奥。 今川義元公戦死の場所ならびに七将の墓、有」と記されている。 また磯田によれば、8年(1771年)桶狭間古戦場に「七石表」という今川義元らの石碑が建立され、それを見たのではないかという。 奇襲 [ ] 「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の3つの説にまとめることができる。 今川軍が警戒している正面以外を迂回した織田軍が奇襲に成功したとする「迂回攻撃説」と、今川軍が織田軍の接近を認識していても敗北したとする「正面攻撃説」、両方の要素があるとする「別動隊説」である。 「迂回攻撃説」 善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。 織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。 「正面攻撃説」 善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。 信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。 今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。 江畑英郷は、2009年刊行の『桶狭間 神軍・信長の戦略と実像』(カナリア書房)で、織田軍が予め押さえていた沓掛峠方面からの別動隊に襲われた今川軍部隊が本陣に潰走し、その混乱に巻き込まれて義元が討たれたとの見解を示している。 岡部元信が撤退時に水野信近を討ったのは、いったん今川方につきながら裏切ったことへの報復と推測している。 「迂回攻撃説」は江戸時代初期の作である『』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。 これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えたの手になることから信頼性の高い『』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が見られる。 「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根砦、鷲津砦を陥落させて勝利に奢って油断していたとされる。 「正面攻撃説」を取る者も信長が予め情報をよく収集して(後述)、今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。 例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが、総大将の目印となる塗が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲を全く予期していなかったのだという見方がされる。 油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。 これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。 例えばの『』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。 また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長が予めよく収集していたという見解は非常によく見られる。 その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた(年間に信長の有力武将として活躍したの父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。 この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。 しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば、信長が予め情報を収集していたという見解にも無理があることになる。 これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。 何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。 この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。 すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。 一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なく、この戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。 沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずで、充分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走することはありうる。 すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとってはであったと思われる。 さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と、地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくい、などという条件が重なる。 つまり、信長から攻撃を受けて今川勢は混乱を来たし、そしてその混乱は一時撤退して立て直せば充分に収拾が可能だったのであるが、それを行う間もなく、運悪く今川義元本人や今川の有力家臣が討たれたということである。 以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、タイミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないか、という解釈になる。 このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。 また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。 小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。 また当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説もある。 ちなみに、この部隊の中に若き日のもいたとの説もあるが、定かではない。 簗田出羽守の手柄 [ ] 上記の通り、の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。 また、最初から奇襲作戦を行うとすればあらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。 そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。 しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。 それどころか、敗者である今川家にはこの前後のが残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。 簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、の『信長記』や『』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈である。 ほかに、簗田出羽守が合戦前にや地形の調査を行っていたとも言われているが(『』など)、確実なものとはされていない。 現代ではが軍事研究家の観点から詳細に構想している ほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及している が、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある。 武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している。 また、中嶋砦の軍議で出撃に慎重な家臣が大勢を占める中で、簗田だけは作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したとする説もある。 だが、これも戦記物のような本には登場するものの、史料には見受けられない。 史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。 沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていない。 桶狭間の戦いを題材とした作品 [ ] 史実について諸説あるだけでなく、創作での描かれ方も様々である。 時代劇 [ ] NHK大河ドラマ• 『』:第45話「謀略! 桶狭間」で、織田軍の作戦を読んだの挑発に乗せられた義元は、勘助が避けるよう忠告した桶狭間に進み、戦死する。 『』: 第9話「桶狭間に死す」で、主人公の実家である井伊家の関係者を中心にして描かれている。 『』:第20話「家康への文」、第21話「決戦!桶狭間」で桶狭間の戦い前夜と合戦当日とが描かれ、主人公の明智光秀が桶狭間に赴く設定になっている。 漫画 [ ]• かわのいちろう『信長戦記』:第1巻(桶狭間の合戦編)。 義元を優れた武将として描き、信長は戦で強い追い風に助けられるなどして辛勝したとする。 『』 ゲーム [ ] ボードゲーム• 織田信長()• 信長風雲録()• 信長の賭け〜強襲桶狭間〜()• 桶狭間合戦() アーケードゲーム• 甲斐国の武田氏は(信玄)期に三国同盟を背景に侵攻を行い、を巡り越後国の(上杉謙信)とを繰り広げているが、信濃に拡大した武田領国は尾張の隣国である美濃に接し、武田と織田氏は永禄初年頃から外交関係を持ち始めていたと考えられている。 「今川義元討死の事」『』より。 「この時信長敦盛の舞を遊ばし候。 人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。 一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。 最近の研究では「地形的に奇襲ではなく、雨も止んでからの戦闘」だったともいわれている(詳細は)• 大石泰史によれば、義元が輿に乗っていたのは尾張では輿に乗れる資格があるのは守護の斯波氏のみであり、織田氏との家格の違いを視覚的に示すことで尾張の人々に威圧を与えて抵抗意欲を削ぐためのパフォーマンス・デモンストレーションであったという。 の教えであり、大意は「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」。 登誉は浄土宗徒でもあった元康に、この努めを果たすように説得したのである。 近年、丸島和洋は元康の岡崎城帰還は織田軍の西三河侵攻に備えた今川氏真の方針に沿ったものとする説を出している。 前述の丸島説では、元康は当初は岡崎城で今川軍の一員として織田軍と対峙していたが、氏真が三河救援よりもの救援を優先したことで、無援状態になった元康が織田氏と結んで領国の保持を図ったとしている。 甲斐の武田信玄は元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。 西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている。 六角氏は、桶狭間の戦いで逆に織田信長に味方した史料が発見されている。 義元は現地の百姓や村長から差し入れられた酒や食料で酒宴を始めていたとの説もある。 但し、大久保忠教の生年は1560年であり、合戦に直接参加していたわけではないことに留意する必要がある。 『風林火山』における武田氏が桶狭間の戦いに関与したとする描写は、武田氏からの援軍が存在する可能性を指摘した丸島和洋の説(2015年) よりも前のもので関連性は無い。 出典 [ ]• , p. 216. 35-36, 「総論 今川義元の生涯」. - 『』• 392-395• 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年。 小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2004年、239頁。 久保田昌希「戦国大名今川氏の三河侵略」『駿河の今川氏』第三集、1978年。 橋場日月『新説桶狭間合戦 知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』〈学研新書〉、2008年。 服部徹『信長四七〇日の闘い 伊勢湾と織田・今川の戦略』風媒社、2008年。 小林正信『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』里文出版、2013年。 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2007年、27頁。 磯田道史の古今をちこち「1840年 豪農の豪華な旅」『読売新聞』2015年7月8日朝刊17面• 『』2008年2月号(ASIN: B00117DNI2)• 武岡淳彦『戦国合戦論』、1981年。 谷口克広『信長と消えた家臣たち』〈〉、2007年。 武田鏡村『大いなる謎・織田信長』〈〉、2002年。 オンデマンド(2019年11月10日閲覧) 参考文献 [ ]• 、1844年。 『新訂 信長公記』、校注 、1997年。 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 〈〉、2000年。 編 『今川義元』 戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (「西国の桶狭間」といわれている合戦)• 外部リンク [ ]•

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