緒方 洪庵。 適塾「扶氏医戒之略」、緒方洪庵の話をされていた村上宥快和尚さん

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緒方 洪庵

略年譜 [ ]• 7年()7月14日、のの流れをくむ備中佐伯氏の一族である(現在の北部)士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる。 母石原光詮の娘・キャウ。 幼名は 騂之助(せいのすけ)。 備中佐伯氏は佐伯惟寛(の弟)の末裔と称した。 8歳のときにかかった。 8年()2月5日、元服して 田上惟章と名乗る。 10月、大坂堂島新地4丁目(現・3丁目)にあった足守藩大坂のとなった父と共に大坂へ出る。 文政9年()7月、にの私塾「思々斎塾」に入門。 この時に 緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。 4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。 2年()、へ出てに学び、さらににも学んだ。 天保7年()、へ遊学しの医師ニーマンのもとでを学ぶ。 この頃から 洪庵と号した。 天保9年()春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市3丁目)で医業を開業する。 同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。 同年、天游門下の先輩・の娘・ 八重と結婚。 のち6男7女をもうける。 2年()、過書町(現・大阪市中央区3丁目)の商家を購入し適塾を移転。 移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。 2年()、その6日前に京に赴き、出島の医師が輸入し京都に伝わっていた痘苗を得、古手町(現・大阪市中央区4丁目)に「 除痘館」を開き、牛痘法による切痘を始める。 嘉永3年()、郷里の足守藩より要請があり「 足守除痘館」を開き切痘を施した。 牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンをからまでの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。 その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。 5年()、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした• 元年()、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区3丁目)に移転。 文久2年()、らの推挙を受けたの西洋医学所頭取としての出仕要請を、一度は健康上の理由から固辞するが、幕府の度重なる要請により、 兼 西洋医学所頭取として江戸に出仕する。 歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、ら7名を推薦した。 12月26日「」に叙せられる。 文久3年()、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。 享年54()。 は、2丁目。 42年()6月8日、贈。 人物 [ ]• 武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。 当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。 洪庵の功績としてもっとも有名なのが、適塾から、、、、、、などからにかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。 日本最初の病理学書『 病学通論』を著した。 を広め、の予防に尽力。 なお、自身も文化14年()、8歳のときに天然痘にかかっている。 安政5年(1858年)の流行に際しては『 虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど、日本医学の近代化に努めた。 人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。 福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。 学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。 ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。 それはきわめて厳格で、子のとが、預けられた加賀のの塾を抜け出し、越前に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。 語学力も抜群で弟子から「メース」(の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。 諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。 何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している。 原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたのである。 洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。 晩年の万延元年(1860年)には門人のから高価な英蘭辞書二冊を購入し英語学習も開始した。 これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。 このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。 福澤諭吉が適塾に入塾していた時にを患った。 堂島新地5丁目(現・大阪市1丁目)にあった大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。 諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。 このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しくにも力を注いだ。 これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。 とくに和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。 江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな。 」という悲痛な作品を残している。 江戸での洪庵は将軍の侍医として「」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。 さらには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はを購入するほどであった。 以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。 洪庵の急死の原因として、友人のは、西の丸火災のときの避難に同行して長時間炎天下にいたことであると述べている。 適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN コーアン=洪庵 "の名が用いられている。 また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。 人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者やなどの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり顔が広かった。 大阪城在番役を勤めていた旗本は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。 また、ライバルであった一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。 親族 [ ]• 妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。 洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。 福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。 」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。 洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。 八重の葬儀には、門下生から政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭がに差し掛かっても、彼女の棺は、2. 5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。 八重の甥に紙幣製造に貢献した化学者の岸本一郎(1849-1878)がいる。 岸本は緒方宅で育ち、幕府派遣の留学生に選抜され、日本の最初期の化学留学生としてで学んだ。 次男の(これよし、1843-1909、幼名平三、のちに章、洪哉、字は子縄、通称は洪斎、号は蘭洲 )は、慶応元年(1865年)に幕府からの命令にてに留学、明治元年(1868年)に帰国して、京都のの医師となり、の侍医となった。 明治2年(1869年)に八丁目寺町の大福寺(現・大阪市4丁目)に設立された浪華仮病院 大阪大学医学部の前身 の院長となり、オランダの軍医らとともに病院の運営した。 明治4年(1871年)から陸軍の軍医となり、明治18年(1885年)には陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として、の予防策に麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立し、明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。 妻の吉重(1854-1927)はの娘きはと三沢良益(主・のお抱え医師)の次女で、14歳で22歳の惟準と結婚した。 その子供に、緖方銈次郞(1871-1945、緖方病院内科長のち院長、妻はの三女、子に緒方準一(学長)、、)、、。 義兄弟(妻の姉妹の夫)に判事の三沢元衡(の実弟)・・・。 洪庵、惟準、銈次郞、準一と続いた本家の医業は、準一長男の惟之(1925年生、慈恵医大卒)が奈良市で開業していた整形外科医院を閉じて途絶えた• 三男・緒方惟孝(1844-1905)。 第10子で五男の緒方惟直(1853-1878)は早くからを学び、1873年ので通訳を務めた。 1875年にへ渡り、で教師となる。 翌年当地の女性と結婚。 長女エウジェニア豊(1877-1967)が生まれる。 惟直は1878年に25歳で死去。 豊は1890年に母親も亡くし、1891年に緒方家に引き取られ、加陽光太郎を婿養子に迎え二男三女をもうけた。 第12子、六男の緖方收次郞(1857-1942)は、東京医学校を1881年卒業し、東京大学雇及医学部眼科当直医となり、1883年東京大学御用掛、1886年に東京帝国大学助手となるも翌年辞職して緖方病院副院長となり眼科及外科の診察を担当、1889年から3年間滞欧し、帰国後緖方病院の院長を務めた。 その長男の緒方洪平は教授。 三女・三重子は、役員のほか監査役などを務めた平野珪蔵に嫁いだ。 五女・淑子の夫・福沢八十吉はの孫(諭吉の長男・一太郎の長男)。 第13子で八男の緒方重三郎(1858-1886)• 四女の八千代は洪庵の弟子・緒方拙斎(1834-1911、旧姓・西)を婿とした。 拙斎は適々斎塾を継ぎ、緒方惟準らと1887年に緒方病院を設立、1889年には大阪慈恵病院を設立した。 その長女・千重(1861-1914)は緒方正清(1864-1919、旧姓・中村)を婿に迎えた。 正清は帝国大学医科大学卒業後欧州に留学し、ではに師事、帰国後、当時私立三大病院のひとつになっていた緒方病院の産婦人科長となり、その後は独立し、大阪今橋に日本初の本格的な産婦人科専門の緒方婦人科病院を設立。 産婆に代わってという語を提唱し、助産婦教育所、助産婦学会を設立するなどして産婦人科の発展に寄与した。 正清の病院は養子のが継ぎ、その子、孫と継承されている。 孫のとはそれぞれ病理学者と薬学者である。 曾孫のはでの研究を行い、日本の血清学の基礎を固めた。 昭和23年()3月に血清学振興会を設立し、血清学領域の基礎研究及び応用研究が行われてきた。 その後、に発展し血清学に留まらず広く・分野などの調査研究(学術誌:)を行っている。 また、同研究所では緒方洪庵や、、などの貴重な蘭学資料を「蘭学文庫」として所有し公開している。 登場作品 [ ] 小説• 『』シリーズ(『』〈2001年〉、『』〈2002年〉) 漫画• 『』 テレビドラマ• (1977年・NHK、演:)• (1985年・TBS、演:)• (2009年・TBS、演:)• (2009年・NHK、演:)• (2012年・NHK、演:) 映画• (2018年・、演:) 脚注 [ ] []• 写真では白黒だが、実際はカラー。 夫人の八重像と対。 『緒方洪庵伝』第二版増補版(岩波書店、1977年)p4. 『』 - 9頁。 『』 - 153頁。 コトバンク• 『洪庵・適塾の研究』梅溪昇、思文閣出版, 1993、p517• 『洪庵・適塾の研究』梅溪昇、思文閣出版, 1993、p515• 『洪庵・適塾の研究』梅溪昇、思文閣出版, 1993、p534• 『人事興信録』第4版 [大正4 1915 年1月]• 『よみがえる適塾: 適塾記念会50年のあゆみ』梅溪昇, 芝哲夫、大阪大学出版会, 2002, p9• 『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]• 20世紀日本人名事典• 日隈ふみ子、京都大学医療技術短期大学部紀要、2000 参考文献 [ ]• 『緒方洪庵 -幕末の医と教え-』(思文閣出版、2009年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 佐野常民• 外部リンク [ ]•

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適塾 緒方洪庵と門人たち。180年の歴史を詰め込んだ図録を。( 松永 和浩(大阪大学適塾記念センター准教授) 2018/10/26 公開)

緒方 洪庵

(*無断での写真の転用は禁止いたします) Last Updated: 26 May 2007 以下、より引用しました。 江戸時代から今に至るまで、大阪は町人の町、商人の町。 自由闊達な雰囲気がみなぎっている。 船場北浜、御堂筋のすぐ裏手に、近代的なビルに囲まれ今も残る町家風のたたずまい、緒方洪庵の適塾は、昭和二十年の大空襲にも奇跡的に焼失を免れ、往時の姿をとどめている。 緒方洪庵、号を適々斎という。 「おのれの心に適(かな)うところを楽しむ」心境を意味する。 ここから、洪庵の塾を「適々斎塾」あるいは略して、「適塾」と呼ぶようになった。 明治維新からさかのぼること三十年、天保九年(1838)、洪庵二十九歳の時から五十三歳に至る二十四年間にわたって、適塾は続いたのである。 当時日本一栄えた蘭学塾とはいいながら、造り・たてつけはけっして上等とはいえない。 手狭な塾は、若者たちの熱気で、むんむんしていたことであろう。 中庭を隔てて洪庵の使った書斎があった。 洪庵その人を思わせる端正なたたずまいである。 吉田松陰の松下村塾を、思想教育の塾とすれば、適塾は、いわば語学教育・実技教育の塾であった。 ビジネス街の中心にあります。 適塾 適塾 司馬遼太郎著 に併録れている「洪庵のたいまつ」より 世のためのつくした人の一生ほど、美しいものはない。 ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。 緒方洪庵のことである。 この人は、江戸末期に生まれた。 医者であった。 かれは、名を求めず、利を求めなかった。 あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。 そういう生涯は、はるかな山河のように、 実に美しく思えるのである。 (・・・後略) 適塾 適塾 緒方洪庵(おがたこうあん) 文化7年7月14日 1810年8月13日 - 文久3年6月10日(1863年7月25日) 緒方洪庵は備中足守(岡山市足守)に生まれました。 文政8年(1825年)大坂に出、その後長崎での蘭学修行などを経て天保9年(1838年)に大坂・船場に蘭学の私塾『適塾』(適々斎塾)を開き、弘化2年(1845年)現在の場所にある商家を購入し、大いに発展させました。 適塾における教育の中心は蘭書の会読でしたが、この予習のために塾生が使用した辞書がヅーフ辞書長崎出島のオランダ商館長ヅーフがハルマの蘭仏辞書に拠って作成した蘭和辞書)であり、当時は極めて貴重で適塾にも一部しかなく、塾生はヅーフ部屋と呼ばれる部屋に詰めかけ、奪い合って使用したといいます。 塾生の勉強は他の塾とは比較にならないほど激しいものがあり、福沢諭吉は自ら述懐して、凡そ勉強ということについては、この上にしようも無いほど勉強した、と言っています。 緒方洪庵に関する司馬遼太郎氏の書籍には や があります。 以下『花神』より引用しました。 なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。 洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。 当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。 洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。 その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。 洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。 適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。 「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。 洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。 ヅーフと通称されているのは、この当時の日本で一種類しかなかった『蘭日辞典』のことである。 ヅーフという人物は一七九九年から一八一七年まで長崎の出島のオランダ屋敷にいたオランダ人でHendrick Doeff(ヘンドリック・ドエッフ)という。 べつに学者でも医者でもなく、貿易官吏だが、言語に関心がふかく、滞日十九年のあいだに日本語を習得した。 さらに辞典をつくった。 辞典といっても、在来あったハルマ著の『蘭仏辞典』のフランス語を日本語におきかえただけのものだが、この辞典が江戸期の蘭学に貢献したところははかりしれない。 適塾 適塾 適塾をめぐる人々 洪庵は優れた蘭学者・医学者であったばかりでなく、同時にみごとな教育者でした。 適塾には入門者が日本全土から集まりその数は千人にも達したそうです。 特に佐賀・筑前・越前・土佐・宇和島・足守の各藩などは、藩主の命によって入門者を送ってくるほどに、適塾の評価は高いものでした。 これら適塾門下生には明治維新に向け激動の時代に身を捧げていった大村益次郎や橋本左内があり、また慶応義塾を創立し、教育の著作活動を通じて明治の日本人の意識の近代化に多大の貢献をなした福沢諭吉もいました。 内務省の初代衛生局長として日本の衛生行政を確立していった長与専斎も適塾出身です。 他にも戊辰戦争で敗れた大鳥圭介や高松凌雲、日本赤十字社の祖・佐野常民を輩出しています。

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緒方洪庵(おがた こうあん)とは

緒方 洪庵

江戸時代、200年以上にわたり鎖国していた日本において、貿易を許可されていたのは、清とオランダだけ。 オランダを通じて輸入されるヨーロッパの学術や文化、技術は「蘭学」と呼ばれ、日本人にとって貴重な知識であった。 幕末に活躍した蘭学者に緒方洪庵がいる。 彼は蘭学の第一人者であり、蘭方医(西洋医学の医者)としても仰がれる存在。 ドイツ人医師フーフェラントの内科学『扶氏経験遺訓』を翻訳するなど、大きな功績を残している。 幕末にコレラが猛威を奮った際も、予防に尽力したのが洪庵だ。 かかって3日で死んでしまうからと「3日コロリ」と呼ばれるほど恐れられ、江戸だけでも10万人の死者を出したコレラの対処法を、『虎狼痢治準(ころうりちじゅん)』の刊行によって広めたのだ。 その人柄は温厚で、怒るときも決して声を荒げず、穏やかに諭したという。 学生たちは「洪庵先生はほほえんだときこそ怖い」と噂したとか。 また、ベルリン大学教授フーフェラントの内科書を翻訳した『扶氏経験遺訓』は緒方洪庵の人となりがにじみでており、臨床の知見をまとめたものとして名高い。 特に、『医戒の大要』の抄訳である『扶氏医戒之略』は、医学者たちの間でよく知られている。 12ヶ条からなっており「医の世に生活するハ人の為のミ、をのれかためにあらすといふことを其業の本旨とす」から始まる格調高いものだ。 「病者ニ対してハ唯病者を視るへし、貴賎貧富を顧みることなかれ」「同業の人に対してハ之を敬し、之を愛すへし」などとあり、洪庵の高潔な人柄が偲ばれる。 そんな緒方洪庵が、学生たちの学ぶ場として開いたのが適塾だ。 天保9(1838)年に開塾したのち、文久2(1862)年までは洪庵自身が学生たちの教育に多大な勢力を注いだ。 洪庵が江戸幕府から奥医師と西洋医学所の頭取を命じられ、江戸に召し出されると、義弟や子息、門下生たちが塾の経営を助け、さらには分塾までされている。 塾生たちは青森と沖縄を除く全国各地から集まっており、入塾者の『姓名録』によれば総勢637名にも及ぶ。 出身地を見ると、大阪からの入塾者は19名と意外に少ない。 関西のほかの都道府県を見ても京都府は26名、兵庫県は33名。 入塾者がもっとも多く集まってきたのは山口県からで、56名にもなる。 苦学生も多かったというから、この距離を旅するのは大変だったろう。 長州藩はオランダ船が寄港する長崎に近く、先進の学問を学びたいと考える若者が多かったのかもしれない。 そして塾からは福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、近代の日本を支えた政治家や学者が数多く輩出された。 しかし明治時代になると、政府による教育制度の整備とともに役目を全うし、その教育は、大阪医学校、大阪府立医科大学、大阪大学へ引き継がれていく。 特に適塾出身者らを中心として創立された大阪医学校は、変遷を経たのち、大阪帝国大学医学部、そして大阪大学医学部へと発展するのだ。 客座敷から見た中庭。 その向こうに見えるのが教室だ 当初は大阪の瓦町で塾を開いていたが、塾生が増えたため、弘化3(1845)年に現在の北浜へ移転。 建坪125坪のこの建物は、大阪の両替商から購入したものとされているが、1940年に大阪府の史跡に指定、1941年に国の「史跡緒方洪庵旧宅及塾」に指定される。 そこで、適塾を保存するために、緒方家は大阪帝国大学へ寄付することにした。 昭和27(1952)年には、今村荒男大阪大学総長が適塾記念会を設立。 大学内外から会員を集め、大阪近代文化解明のための活動を始めた。 適塾は大阪大空襲からも焼け残り、1964年には重要文化財となるが、このころから建物の老朽化が顕著となってきた。 そこで1972年に大阪大学適塾管理運営委員会が設置され、適塾の保全・管理、適塾精神の継承と発展に全学を上げて取り組んだという。 そして適塾記念会と管理運営委員会が協力して、建物保存のために取り組んだ結果、文部省文化庁により解体修復工事をほどこされることになった。 工事は昭和51(1976)年から始まり、5年後の昭和55(1980)年に完成、この年の5月から一般公開されている。 適塾は我が国唯一の蘭学塾の遺構であり、江戸末期の船場町屋遺構としても注目されている。 建物が建築されたのは200年以上前、塾生たちがここで学んでいたのも約150年前までだが、ビル群の中にありながら町屋の静かな雰囲気そのままで、今でも高い志を持った学生たちの息吹を感じるほどだ。 学問に励む学生たちを偲ばせる内部 住み込みの学生たちが寝起きしていた28畳の大部屋。 一人に畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強していたらしい 入り口から玄関部屋を通り抜けると、塾生たちが学んだ6畳の教室がある。 学力に応じて約10クラスに分けられ、それぞれ10~15名が学んでいた。 教室の奥には中庭があり、客座敷や応接間へと廊下が続いている。 2階へ上がると女中部屋があり、その奥に「ヅーフ部屋」と呼ばれる6畳の部屋がある。 ここには大変貴重な蘭和辞書の「ヅーフ辞書」が置かれており、学生たちが詰めかけ、奪い合うように使用していたという。 当時、オランダ語文法のテキストとして使用されていたのは『ガランマチスカ』と『セインタキス』という文典で、この二冊が理解できるまで、会読(読み合わせ)に参加できなかった。 そして会読の予習時においても、他の入塾生に質問や相談することは許されなかったから、ひたすら自分で勉強しなくてはいけなかったのだ。 それゆえか、夜を通してヅーフ部屋の明かりが消えることはなかったという。 その先にあるのは、住み込みの学生たちが寝起きしていた28畳の大部屋。 一人に畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強していたらしい。 このとき、成績の良い者から畳を選べたので、明るい場所、出入りのしやすい場所から埋まっていったのだとか。 内助の功で洪庵を支えた八重 ふすまの下張りから発見された、八重の手紙。 従来の良妻賢母のイメージよりたくましさが伝わってくる内容だ さらに先般、洪庵の妻である八重の手紙が新たに発見された。 八重は適塾開塾の年に洪庵と結婚。 その時洪庵は29歳、八重は17歳だったから、12歳もの年齢差がある。 しかし9人の子供を育てながら洪庵を支え、塾生からは母のように慕われていたという。 手紙は屏風の下張りから発見された。 下張りとは骨組みの補強に使用された反故紙のことで、紙は日に焼けて茶ばんでいるが、線が細いながらもおおらかな八重の筆遣いが、はっきり残っている。 母のように慕う塾生たちの証言により、良妻賢母の鏡として知られてきた八重だが、発見された手紙からは、お茶目ながら、商才たくましい女性像が浮かび上がる。 案外、適塾が繁栄したのは、八重のやりくりのうまさにあったのかもしれない。 近代日本を支えた政治家や学者を多く輩出した適塾。 便利な場所にありながら、のんびりした時間を過ごせる場所でもあるので、刺激を受けたい人にはぜひお薦めしたい。

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