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創業95年!京都の老舗パン屋「天狗堂海野製パン所」実食レビュー

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こんにちは、海野です。 昨日『静岡県富士市の泰徳寺』で文化祭が行われました。 泰徳寺の催しは毎年行われており、富士市在住・かわもと工房のインストラクターの山田尚美さんの作品も毎年展示されています。 今年の出展作はこちら、 クレマチスのパネルと薔薇のミラーです。 山田さんの作品は、細かなデザインで丁寧な作業をするので 私も作品を観られるのをいつも楽しみにしています。 オーナメントがたくさん並ぶとゴージャスですね😊 ステンドグラスのガラスは 背後から光を浴びて観ていただきたい作品になりますが、特に自然光を通して観るとキレイに観る事ができます。 違う写真も... 贅沢な展示です。 光をたくさん受けてガラスがキレイです😊 同時開催でマルシェも行われ、お寺は大賑わいでした。 たくさんの露店の出店や地場産品の販売などもありました。 昔お寺は、人が多く集まる場所でした。 現在はお墓参りくらいしか訪れる事がないでしょう😢 こういう催しはイイですね👍 今回行く事が出来なかった方、来年は是非訪れてみて下さい。 また『かわもと工房』では工房での体験講座の他、出張の体験講座もお受けしています。 先ずはお電話でお問い合わせ下さい。 北海道・小樽の和光荘の館長が所有している『小川三知』のステンドグラスパネルをかわもと工房でレストレーション 修復 していると以前ブログで書かせて頂きました。 昨年の10月に北海道まで引き取りに行ったパネル。 11月にかわもと工房にて鑑定会を行い、小川三知の作品だと認定を受け 驚きの評価額となりました。 その後、修復用のガラスが揃い、今年1月2日より修復を始めました。 修復していると今では使っていないケイム(銅製のケイム)も見つかり、修復にはとても苦労したそうです 昭彦先生談 が、この程ついに完成。 工房にて館長の野口さんをはじめ、三知研究家の井村さんらが集まり、お披露目となりました。 野口さんは 「三知の作品を是非、静岡のみなさんに観て欲しい」と言ってくださり、この度静岡の旧市庁舎3階にて展示される事が決まりました😊 日時 3月20日 静岡市旧市庁舎 3階 8:30〜17:00 3月21日 移動・設営日 3月22日〜数日 静岡市役所 新館 1階 8:30〜17:00 無料でどなたでもご覧いただけます。 是非観に来てください!! 詳細はまた決まりましたらお知らせいたします。 このパネルは、小川三知か作ったものなのか? 鑑定の結果を待ちました。 結果は… " 小川三知の作品 "と認定されました😊 ではここでその作品、パネルを御覧下さい 二羽の三光鳥が気持ち良さそうに飛んでいる、4枚のパネルです。 小川三知はもともと日本画を描いていたこともあり、作品には余白 空間 の使い方に特徴があります。 築地邸のステンドグラスの空間の使い方もそうです 4枚のパネルも、ゆったりとした時間が流れているように見えます。 『実物、観たかったなぁ😢😢😢』 しかし、残念な事が…。 1番左のパネルを御覧下さい。 割れてます😢 拡大すると… ガラスは絵画とは異なり、色あせることなく、何年も同じ色を保っています。 が、不注意で割れてしまう事があります。 そんなときには" 修復 レストレーション "が可能なんです。 ヨーロッパの教会に入っている何世紀も前のステンドグラスも老朽化に伴い、レストレーションがされています。 かわもと工房の大先生(昭彦先生)がこのパネルをレストレーションすることになりました。 もと通り復元されるまでをTVが追いかけてくれるそうです。 前回のTV局の取材の中では" ガラス探し "まで放映されました もちろん今回の" 鑑定会 "の模様もニュースで取り上げられます 11月23日 金曜日 18:00 ニュースevery 内で放送 第一テレビ Daiichi -TV 是非御覧になって下さい。 「郷土の偉人」のお話ということで会場は満員、凄い人でした😱 この施設は統廃合された 旧小学校を利用。 教室くらいの広さの場所に70名程の人が… 昨年『小川三知』の生誕150年という事を記念して開催された『小川三知パネル展』でも 井村さんの講演がありましたが、自分はその時には裏方でしたのでお話を聴くことが できませんでした😢 しかし今回は🙆 井村さんの資料も昨年に手に入れていましたので、『小川三知』のお話をワクワク しながら聞きました。 井村さんのお話はとても分かりやすく、写真やユーモアを交え、あっという間に時間が 過ぎてしまいました。 他の方々も満足されたのではないでしょうか。 自分も『三知の作品』をもっと観てみたい!と思うようになりました。 その中で触れられた和光荘館長の野口さんが保有する『三知の作品?』 と思われる4枚のパネル。 三知のパネルだといいなぁ。 TV局の取材も入るようですのでお楽しみに! 後半は昭彦先生が、ステンドグラスやガラスの事について熱く語って下さいました。 普段は聞いたことがなかったお話。 今後の自分の制作活動に役に立つお話でした。 井村さんのお話が聞きたい方、こんなイベントがあります 静岡出身のステンドグラス作家、藤原俊さんの作品展の中でトークショーが開かれます。 このイベントは埼玉県入間の越生町にある『がらすらんど』の倉庫で行われ、ステンドグラス用のガラスや部材を大セールする一年に一度のお祭りです。 開場前はこんな感じでひっそりとしているのですが、オープン後には大勢のステンドグラス愛好家でいっぱいになります。 倉庫では全国から特約店のブースが出店し、掘り出し物の販売やワンポイントレッスン等、ステンドグラスを始めたばかりの人でも大いに楽しめます。 かわもと工房もブースを出店し部材の大安売り、先生方も大忙しでした。 ガラスのストックコーナーや部材売り場では、がらすらんどのスタッフの方達も大忙しで対応してくれています。 そんなイベントにガラス中毒の私達が行かないわけないじゃないですか👍 "ハゲ鷹軍団"と孝先生に命名されたこの集団。 総勢24名。 昨年は7時に静岡を出発したのですが到着が開店に間に合わず、狙っていた獲物が取れず悔しい思いをしました。 今年は1時間出発を早め、獲物の獲得を目指します。 到着は開店30分前。 既に多くのお客様がいらっしゃっていたのでイベントは始まってましたが、"ハゲ鷹軍団"は到着と同時に獲物に向い飛び立ちました。 そして約6時間後… みんな疲れ果てて帰りのバスでは、ぐったり💦💦💦 狙っていた獲物はゲットできたのかな? がらすらんどの"かわもと"担当の小野さんもみんなのパワーに圧倒されていたそうです😓 『がらすらんど』の北社長をはじめ、スタッフのみなさん、各ブースの先生方、ありがとうございました。 来年も更にパワーアップして伺いますね。 先に行われた" 第23回 かわもと工房 作品展 "で自分が出展した作品『 シヴァ 』について 『「どうやって作ってるの?」と聞かれたわよ』と先生方から聞きましたので、少し説明したいと思います。 作品はこちら ステンドグラス=stained glass 英語に訳すと二つの単語からなっています。 簡単な単語からglassはガラスという意味です。 そしてstainedは『汚す、焼き付ける等』といった意味をもつ動詞" stain "の過去形です。 本来の意味のステンドグラスとは絵付けをして焼き付けたものをいいます。 ステンドグラスの始まりは9世紀のヨーロッパで、教会の窓を飾る教会美術として始まりました。 当時は読み書きが出来ない人も多く、聖書のストーリーを分かりやすく伝えるために教会に入れられたそうです。 現在ほど様々な種類のガラスを作る技術がなかったため、ガラスに絵を書いていました。 その時に使われたのが『グリザイユ』『エマイユ』『シルバーステイン』といったステンドグラス用の絵の具です。 これらを使用することで、絵に表情を出すため明暗を付けたり、ガラスに入る光りを調節したりすることができます。 『グリザイユ』は鉄や銅の金属酸化物をベースにガラスの粉を混ぜた絵の具で、いろいろな色があります。 茶、黒系のグリザイユは線描きや明暗を付けたり、立体を表現するために使われます。 暖色系のガラスを使用する際には茶系の、寒色系のガラスを使用する際には黒系のグリザイユを使うのが普通ですが、ガラスが設置される場所により様々です。 茶系のグリザイユ《写真の右側ボトル、袋はシェーディング 次回説明します 用と線描き用で違うものを使っています》 『エマイユ』はいろいろな鉱物にガラス質の釉を混ぜたエナメル質の絵の具。 彩色に使われます。 ガラス同様、赤や黄色は絵の具の値段が高いです😱 『シルバーステイン』硝酸銀でできた絵付けの顔料 酸性が強く他の絵の具を侵食してしまうので同じ側に使用できない 色はイエロー、オレンジ、アンバーがあります。 次の写真はグリザイユを使い、線描きをしたところです。 つづく。 第23回かわもと工房 作品展は昨日、無事に終了しました。 今回は初めての会場ということもありスタッフ一同手探りの状態でしたが、多くのお客様にご来場いただきました。 5日間の来場者数トータルは1020名でした ありがとうございました🙇 会場を提供していただいたホビースクエアと PACのみなさま、チラシを置かせて頂いたお店のみなさま、本当にありがとうございました🙇 もう次の作品展に向けて制作を始めた人、来年のポスターに選ばれようとデザインを考えている人、多くのお客様に来場頂き、励みになったことと思います。 24回を迎える来年の作品展も、今回以上の作品をお見せできるよう頑張りますので期待して下さいね。 是非、お越し下さい。 " 第23回 かわもと工房作品展 "に足をお運び下さいましたお客様、ありがとうございました🙇 4日目が終了し、残すところ本日1日となりました。 期間中2度、3度と来場してくださるお客様もおり、感謝の言葉もありません。 昨日4日目も体験講座は大盛況で常に満席状態でした。 今回体験講座が受けられなかったお客様、 次のイベント 10月に静岡の古民家・鈴木邸で展示、販売、体験講座があります に是非、いらっしゃって下さい🙇 今回は" 小川三知 "のステンドグラスを紹介します。 " 三知を讃える会 "のご厚意で展示しているパネル 衝立 と小川三知の末裔の方からお借りした額入りのパネル、ランプの3点が展示されています スミマセン🙏すべて"三知を讃える会"からお借りしたものと思っていました 三知は元々、絵の勉強のために渡米したのですがステンドグラスに魅せられて、その技術を学びました。 日本画を勉強していたためにデザインにその痕跡が残っています。 特にこの3点のうちの『築地邸』のパネル 一番左の衝立パネル は日本画そのものです。 実際は4枚制作されましたが、現在は2枚しか残ってないそうです😢 故郷静岡で、常時三知の作品が観られないのが残念です。 作品展は今日が最終日。 三知の作品を御覧になりたい方は是非、足をお運び下さい。 かわもとの作品にも三知のスピリットが見られるハズです。 かわもと主宰の昭彦先生は三知を崇拝し、渡米。 早いもので作品展も3日が過ぎてしまいました😱 今日も会場では昨日に引き続き、体験講座が行われます。 これまでご来場いただきましたお客様、ありがとうございました🙇 今回は" 海野目線 "で選んだ作品を2点、紹介しちゃいます。 まず今回の作品展の中で、自分の1番のお気に入り。 由井先生の作品です。 先生曰く、『外の景色が違うと見え方が違う』と。 先生は昨年訪れたドイツ・マインツ大聖堂のステンドグラスを参考にこのパネルを仕上げたそうです ブログのカテゴリー、ドイツ旅行記を参照下さい。 "マインツ大聖堂"は近日アップします🙇 パネルはロンデルというガラスを使用 手作りしのため、1枚が高価です😱 して、シンプルに仕上げています。 ロンデルの色も優しい色が使われており、なるほど、ドイツで観たステンドグラスのようでした。 是非、建築物に入っている所を観てみたいです👍 もう1つは今回の作品展のポスターにも使われている インストラクター・荒井さんの作品 ティファニーランプのレプリカ" ラバーナム " ガラスピースが細かいのが特徴のこのランプ。 約2000ピースあるそうです😱 実物を観て欲しいです。 歴史ある洋館に飾られていたらステキだろうな。 他にも個性ある作品が目白押し。 いろいろな作品を見るとデザインやガラスの使い方など、自分とは違う所が凄く勉強になります。 刺激をたくさん貰えます。 作品展は明日までの開催となっています。 是非、御覧下さい🙇 おまけ 昨夜作品展の帰り道、自宅からの最寄駅・西焼津にある結婚式場 ゲストハウス リッチモンド ステンドグラスがライトアップされてました。 これは" 三知を讃える会 "のご厚意によるものです。 ありがとうございます🙇 作品展は24 月・祝 までです。 三知の作品、かわもとの作品を是非御覧下さい。 さて、昨日アップしたブログ『ご来場、ありがとうございます』に登場しました北海道・小樽の" 和光荘 "オーナーの野口さんですが、この洋館、和光荘にも三知の作品が入っています。 写真中央が野口さん、うしろに展示されている作品は小川三知の作品です 自分はまだ北海道に行った事がなく実物を観ていませんが、是非観てみたい作品です。

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朝日新聞に、この歌について記事が掲載されました。 父の思いと3つの偶然 「小さな木の実」神戸市 作詞家の海野洋司さん 79 は1969年の春に長男が生まれたとき、人の親となった感慨を残したいと、詩「草原の秋」を書きました。 少年が秋の野を駆けながら亡き父を思い出す内容です。 海野さんは13歳のときに父を病気で失いました。 たとえ父を亡くしても強く生き抜いてほしいという、我が子への思いを詩に込めたのです。 詩を作って2年後、NHKの番組「みんなのうた」のディレクター若林尚司さん 79 に、「少年を主人公にした歌を」と作詞を頼まれました。 ふと思い出したのが、机にしまったままの詩「草原の秋」でした。 凝縮して曲に当てはめ、詞としました。 これを一読した若林さんはひざをたたきました。 「しめたと思った」。 こうして出来たのが「小さな木の実」でした。 この歌が世に出るには「三つの偶然が重なった」と若林さんは語ります。 当時、ベートーベンの曲に詞をつけたザ・ピーナッツの「情熱の花」がはやっていました。 これをヒントに、クラシックの曲から新しい歌を作ろうと考えました。 作曲家の石川皓也さん 88 に話すと同じことを考えていました。 これが第1の偶然です。 石川さんはビゼーのオペラ「美しいパースの娘」の「セレナーデ」の旋律を1日で編曲しました。 次は作詞です。 新人を発掘しようと考えた若林さんが白羽の矢を立てたのが、歌番組「世界の音楽」の構成をしていた海野さんでした。 当時、交通事故が急増しており、若林さんは交通遺児を励ます歌を構想しました。 その条件に合う詩を海野さんがすでに作っていたのが第2の偶然です。 歌手には、無名に近かった大庭照子さん 73 を起用しました。 大庭さんがNHKを訪れたさい、たまたま対応したのが若林さんでした。 これが第3の偶然です。 71年に放送を始めると、この曲は大当たりになりました。 (続きは10月29日付け朝刊の別刷り「be」をお読みください。

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御牧 、の国府は上田近辺にあった。 ここがの都であったのだ。 上田市国分の駅の近くには、史跡公園が広がり、資料館も建てられている。 国分寺は、十三年(七四一)のの詔により建設されたものだが、もその頃の創建であると推定される。 そして、国府の近くには、軍事用あるいは運搬用の馬を飼育するための国営の牧が置かれるのが普通であった。 それが真田町周辺にも置かれていたのではないかというのである。 その根拠として、「真田町やその周辺に牧の平という地名がいくつか見られること」「が真田町の山家神社境内と、頂近くの群馬県側にあること」「菅平に夏季放牧の管理者の住居跡と見られる遺跡が発見されたこと」などをあげている。 要するに、国営の牧が真田の地にあり、菅平やの麓、群馬県の吾妻地方などが放牧地として当てられていた。 そしてこの牧の経営に当たっていたのが真田氏の祖先であったというのである。 この説は、信濃史学会の会長であった故一志茂樹博士と上田・小県誌編集委員会・真田町教育委員会が発表したものである。 昭和五十一年から三年間にわたって真田町内を調査した結果、真田氏の出自についてこのような興味深い事実を発表したのである。 一志博士らの報告はここまでだが、この馬の放牧はが登場する戦国時代にまで受け継がれていて、この地方は良馬の産地として知れ渡っていたのではないか。 当然のことながら、戦乱の時代になると馬は必需品である。 が真田に注目したのは、現代でいえば軍需産業ともいうべき、真田の軍用馬の生産技術ではなかったかとも思われるのだ。 やがて真田氏はその勢力を真田郷全体に及ぼしていくのだが、それとともに本拠をもっと里側に移している。 その場所は、横尾、真田を経て、現在「お屋敷」と呼ばれているあたりが幸隆の時代の居館ではなかったかと思われる。 真田の名がはじめて史料に現われるのは、『大塔物語』である。 応永七年 一四〇〇 のこと、の守護小笠原長秀の入国をめぐって、それを阻止しようとする国人領主たち 大文字一揆 との間で激しい戦いが起きた。 戦いは平南部で行われ、国人領主たちが勝利した。 この戦いの模様を記したのが軍記物語『大塔物語』である。 その『大塔物語』には、実田 真田 ・横尾・曲尾といった武士が真田郷から参戦していることが記されている。 また、永享十年 一四三八 の結城合戦には真田源太・源五・源六と名乗る武士が出陣したことが『真田町誌』にある。 が、この中世から続く真田氏の末裔であると考えるのは自然だろう。 の末裔であるかは別として、真田氏のはじめは戦国時代信州小県の地に割拠する小豪族のひとつであった。 多くの史料から勘案するに、真田郷は中世から有力な豪族が支配しており、それは真田氏を名乗っていたということが今ではわかっている。 nanngidou 真田氏のルーツ さて真田氏である。 江戸時代に松代藩で編まれた歴史書『滋野世記』によれば、真田氏中興の祖といわれる幸隆は、海野棟綱の嫡男、つまり海野氏の嫡流であるということになっている。 棟綱の嫡男である幸隆が真田郷に住み、真田姓を名乗ったというのだ。 一方他の資料では棟綱の娘の子、つまり棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ、生まれた子が幸隆であるということが記されている。 後に記すように、真田という名の豪族が古くから真田郷にいたことが様々な史料から説明されているので、現在では後者の方が信憑性はあるとされている。 『滋野世記』は江戸時代になって松代藩で書かれた歴史書であり、幸隆を海野氏の嫡流としたのは、十万石の大名真田家の系譜を由緒正しいものにしたいという意図がはたらいていたものと思われる。 海野氏は滋野一族の頭領を自認していた。 滋野一族は、の第四皇子である貞保親王(さだやすしんのう、の同腹の弟)が海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜五年(九〇五)により滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことにはじまるとされる。 滋野氏はその後、領地である海野庄にちなみ海野を名乗るようになる。 海野氏の初代は重道であり、その子の代になって望月氏・禰津氏が分かれた。 これを滋野氏三家と呼ぶ。 しかし、これらの話はあくまでも「とされる」程度のことであり、実際に海野氏がに源を発しているのかどうかは定かではない。 公式の記録では、の皇子に貞保親王の名前はない。 滋野一族の祖は貞保親王ではなく、都の貴族が国牧の管理者として信濃に下向し、土着したものであるとの説もある。 古来より小県・佐久地方は朝廷に献上する馬の産地として有名であった。 中でも望月の牧は、十六牧の筆頭に数えられていた。 に「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」の歌がある。 「望月の駒」はそれほどに都でも名が通っていたのである。 滋野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なった一族であったというのだ。 その滋野一族の小豪族であった真田氏もまた古代には国牧の管理者であったのだという。 その頃は真田町傍陽の実相院のあたりを本拠にしていたのではないかとされている。 傍陽は真田から地蔵峠を越えて松代に至る県道の登り口にある山峡の集落である。 ここはまた菅平の麓にあたり、このあたり一帯に広がる牧の管理者として力を蓄えたのではないかと思われる。 nanngidou 真田の郷 真田郷は山国信州に多くあるごく普通の山村である。 見上げれば・といった二千メートル級の山々が背後に連なり、そんな高い峰の麓にわずかばかりの田畑がひろがっている。 真田郷は現在上田市真田であるが、二〇〇六年のまでは長野県真田町であった。 隣接する上田市と合併したのである。 その旧真田町もそれほど古い歴史があるわけではない。 昭和三十三年 一九五八 長村、同傍陽村、同本原村が合併してできた町である。 真田という町名は公募によって決まった。 有名な真田氏に因んでのものといわれている。 その旧長村に真田という地区があって、ここは一八七六年までは真田村であった。 かつてとここ真田郷の間を小さな私鉄が結んでいた。 上田交通真田・傍陽線である。 菅平高原への誘客の手段にという意図もあったのだろうが、当時の上田交通社長小島大治郎は「山に植林したつもりで」真田の発展のために建設を決意したのだという。 一九七二年、押し寄せるの波に勝てず廃線となったのだが、終点の真田駅は旧長村の真田地区にあった。 駅舎があったあたりは、現在農協の支所となっている。 ここから歩いて五分ほどの場所にあるのが山家神社である。 真田氏のだ。 山家神社は小県に四社ある「内社」のひとつで、その由緒は古い。 この地区のであるとともに加賀の白山社を合祀している。 この山家神社は里宮で、奥宮はの山頂にある。 はの一つでもあるが、修験の山としても古くから信仰を集めていた。 山家神社の拝殿は深い社叢のなかに建っている。 だがこの森は意外にも歴史が新しいのだという。 明治二十年の真田大火で大方が焼け、大正のはじめ植林されたものが育ったのである。 とすれば、真田の集落はこの時の大火で大きな被害を受けたのであろう。 nanngidou 海野平の戦い 五月というから現代の暦に直せば盛夏である。 濃い緑の森に覆われた峠道を、一群の武士団とその家族が先を急いでいた。 あるものは馬の背にのり、あるものは徒歩であったが、彼らはいちように疲れた足取りを運んでいた。 中には手負いのものもいた。 国境の鳥居峠を越えると、そこは吾妻郡である。 人々の顔に安堵の色が広がった。 武田の追っ手はここまではこまい。 ここはの勢力圏である。 一行は故郷を追われ、箕輪の長野業正を頼って落ちのびるとその家族、家臣たちであった。 この年、甲斐のは信濃の豪族諏訪頼重、を誘って信州小県の海野棟綱を攻めた。 後にいうところの「海野平の合戦」である。 海野氏との繋がりの深かった真田郷を地盤とする豪族も兵を率いて出陣した。 主戦場となったのは、海野宿のあたりであるといわれている。 海野宿は、を追分で分かれ、に向かう北国街道の宿場である。 現在でも古い家並みがよく残されており、江戸時代の宿場の情緒を求めて訪れる観光客も多い。 その海野宿の追分側の入口あたりに白鳥神社という古い宮がある。 この白鳥神社こそは、海野一族の氏神であり、海野氏の本拠はこのあたりであった。 もっとも激しい戦いは海野宿の近く、との合流点近くの神川の河原で行われ、ここで海野棟綱の嫡男幸義が戦死している。 敗れた海野棟綱はを頼って上野に逃れた。 海野氏の救援に、憲政は三千騎の兵を信濃に送ったが、武田軍は既に引き揚げた後で、村上氏と戦うことなく帰還した。 結局棟綱は故国奪回の望みを絶たれ、失意のうちに上野で死去する。 一方も箕輪城の長野業正のもとに落ちのびた。 真田と西上野地方は鳥居峠を挟んで道が通じており、古くから交流があった。 幸隆は永正十年 一五一三 に誕生したとされているのでこの時二十九歳。 真田一族の若き当主であった。 その、数年後には敵であったの配下となり、信濃先方衆として信玄の進攻に活躍するようになるのだが、それは次節に譲るとして、まずはふるさとである真田郷のあたりから真田氏のルーツを追って逍遥をはじめることにしよう。 nanngidou 信州小県の中心都市上田から真田を抜け、上州に至る国道一四四号線は、上信国境で鳥居峠を越える。 大正から昭和にかけて一世を風靡したの『猿飛佐助』では、佐助の生まれをこの辺りとしている。 すなわち、「処は信州鳥居峠の麓に鷲塚佐太夫と云うがあった。 元は信州の城主森武蔵守長可の家来であったが、主君武蔵守の合戦に討死以来、根が忠義無類の鷲塚佐太夫二君に仕える心はないと、浪人して程遠からぬ鳥居峠の麓に閑居なし、少々の貯えあるに任せ田地田畑を買求めてになった、此の佐太夫に二人の子があり、姉は小夜、弟は佐助云々」というわけである。 その猿飛佐助がここ鳥居峠の山中で剣術、忍術の修行を励むのだが、その師となって教えるのが戸沢白雲斎であった。 猿飛佐助は、後にの家来となり、となって活躍することになるのだが、もちろん架空の人物である。 戸沢白雲斎もの創作である。 は実在した。 織田信長の家臣で、信長の小姓として本能寺で戦死した森茂利 蘭丸 は実弟である。 信州の城主 主 であったのも事実で、武田氏滅亡後信長よりこの地の仕置きを任された。 しかし、がの領主であったのは、織田信長が本能寺で横死するまでであった。 鷲塚佐太夫がの家臣であったとしたのもまたの創作であろう。 まさに虚実取り混ぜての「」の筆致であるが、その作者はおそらくこの辺りには一度も来たことがなかっただろうと思われる。 のほとんどは、講談師玉田玉秀斎とその家族の共同作業によって生み出された。 その現場はさながら、現在のアニメのプロダクションのようなものであったようだ。 「みんなの原稿書きは、まず朝の七時ごろからはじまる。 それから夜の九時ごろまで、机に向かったが最後、もう傍見をする暇もないというふうだった。 中略 参考書といっても机の上に『道中地図』と『武鑑』が置いてあるだけ。 一日五十枚から六十枚。 日によっては七十枚も書き飛ばさねばならない。 」 池田蘭子『女紋』 こんな状態であったから、もちろん取材に信州に行くことなど考えられなかったはずだ。 しかし、鳥居峠は現代でもいかにも猿飛佐助が忍術の修行をしてもおかしくないほどに、鬱蒼とした森が覆っている。 真田の物語とは切っても切れない縁があるについては、後に記すことになろう。 ここはまず天文十年 一五四一 鳥居峠を越えて上野の国に逃れた落武者たちのことを語らなければならない。 nanngidou.

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