長良川 の 戦い。 長良川の戦いで、道三のところに全然兵が集まらなかったのはなぜですか?仮にも...

長良川の戦いとは?斎藤道三・義龍親子最大の戦い明智光秀はどちらについた?

長良川 の 戦い

概要 [ ] 幹川流路延長166、1,985、流域内人口は83万人。 として有名であり、、とともにのひとつと言われ、中流域が(60年)に環境庁(現・)の「」 に、またのから上流約1kmまでのが(10年)に環境庁の「」に、(平成13年)に「」に全国で唯一河川の水浴場で選定された。 年間総流量は約40億である。 「」で有名。 にで規定されるが存在しない事でも知られる。 (平成6年)にが出来るまでは、で唯一の本流にの無い大きな川だった。 かつては下流域で木曽川・揖斐川と・を繰り返していたため、木曽川の「」という扱いになっていたが、により、現在はによってまで流路が分けられている。 また、昭和初期まで中流域の岐阜市長良福光で長良古川と長良古々川が分派していたが、(昭和14年)に完成した長良川改修工事によって締め切られ、現在の姿となった。 締め切りによって生まれた約160の広大な土地には岐阜県総合運動場(現・)、岐阜市立中学校(現・)、、(3月閉校)、(2012年3月閉校)、(2012年4月開校)などの文化施設や教育機関、県営近の島住宅などのが多数建てられ、岐阜市の発展の一助となった。 なお、長良古川は「早田川」、長良古々川は「正木川」として、かつての流路を確認する事が出来る。 中・下流域ではから家屋を守るために大小多数の「」が形成されており、現在もその一部が残されている。 また、流域市町村の小中学校や公私立高等学校のにも、長良川の河川名が詠われている。 ・に記載されている「藍見川」 が、長良川の旧称という説がある。 流域の自治体 [ ] 岐阜県 、、、、、()、、、同郡、 愛知県 三重県 歴史 [ ]• (3年):大洪水で井水口が破堤して井川(現長良川)を形成(当時は長良古川が本流筋)。 (16年):大洪水で崇福寺前へ流入して新川(古々川)を形成。 (4年)2月 - (宝暦5年)5月:の命令により、が長良川と揖斐川の油島締め切り工事()を行う。 (3年):江戸幕府より、と及びにが命じられる(明和治水)。 (45年):技師の指導により、木曽川、長良川、揖斐川の完成(明治改修)。 (10年):木曽川上流改修(大正改修)が着工。 (14年)3月:長良川改修工事により、長良古川(現在の早田川)と長良古々川(現在の正木川)が締め切られる。 (昭和34年)9月:による洪水被害。 (昭和35年):11号、12号、16号による洪水被害。 (昭和36年):およびによる洪水被害。 (昭和48年):河渡・鏡島改修工事着工• (昭和51年):。 長良川下流部()で堤防決壊()。 (7年):運用開始(竣工は)。 (平成11年):長良川上流部(、当時)で堤防決壊()。 (平成14年):長良川上流部(郡上郡白鳥町、当時)で堤防決壊(台風6号)。 (平成16年):による洪水被害。 旧名 [ ] 江戸時代以前は各流域で異なる名前で呼ばれていた。 現在の「長良川」という名称は、大きなにより川がを流れるようになって付けられたとされる。 上ノ保川(源流部 - )• 郡上川(郡上市八幡町 - )• 伊奈波川、井川、新川(周辺)• 墨俣川(墨俣周辺)- 後期の、の街道の資料などに見られる。 長柄川(『』での表記) 治水 [ ]• の両岸には電動式の大規模な()がある。 この付近にはこのほか大小約100の陸閘(角落しを含む)がある。 からにかけての長良川左岸には玉石積みの堤防(岐阜特殊堤)がみられ、その堤防上部にはをはさみ込んでかさ上げできるようにした角落しを備えている。 利水 [ ]• 中流域の岐阜市付近では、地下を長良川のが流れており、良質のを汲み上げてとして供給しているほか 、一部では自家井戸で汲み上げて飲料水として利用している。 主な支流 [ ]• 牛道川• 大間見川• 栗巣川• (よしだがわ)• - 那比川• - 片知川• - 神崎川• - 、蜂屋川、(きったがわ)• - 、• - 、• 長良川上の構造物 [ ] 長良大橋 長良川に架かる橋 [ ] 下ノ叺橋 - 旧大滝橋 - 大滝橋 - 折立2号橋 - 喰栃橋 - 折立2号橋 - 新井田橋 - 井田橋 - 宮ヶ瀬橋 - 天王橋 - 平成橋 - 中の島橋 - 郡上谷橋 - 大向橋 - 観音橋 - 下向橋 - 油島橋 - 藤の森大橋 - 大向橋 - 歩岐島大橋 - 歩岐島橋 - 平家平橋 - 長滝橋 - 上切橋 - 下向山橋 - 大芝原橋 - 第3上之保川橋梁 - 赤瀬橋 - 白鳥橋 - 奥美濃橋 - 中川原橋 - 越佐橋 - 大島橋 - 中津屋大橋 - 第2上之保川橋梁 - 中津屋橋 - 上万場橋 - 第1上之保川橋梁 - 万場橋 - 名皿部橋 - 釜淵橋 - 西河橋 - 大和橋 - 和合橋 - 中元橋 - 坪佐橋 - 報徳橋 - 勝更大橋 - 稲成橋 - 第6長良川橋梁 - - - 貝付橋 - 深戸橋 - 新美並橋 - 講和橋 - 新三日市橋 - 第4長良川橋梁 - - 赤池橋 - 野首橋 - 円空街道歩道橋 ・三城橋 - 郡南橋 - 福野農道橋 - 下田橋 - 吉田橋 - 新吉田橋 - 勝原橋 - 第2長良川橋梁 - 白石橋 - - 神母橋 - 上河和大橋 - 洲原橋 - 新立花橋 - 第1長良川橋梁 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 名神長良川橋 - - - - - - - - - - -(に合流)- - -() 注記のない出典は による 長良川の堰 [ ] 本流にはで規定されるダムは存在せず、を除くと治水を目的としたも存在しないが、上流部には用の取水用に幾つかの取水堰が設けられている。 名称 長さ 所在地 正ヶ洞水路堰 40 郡上谷水路堰 30 郡上市高鷲町 観音堂水路堰 45 郡上市高鷲町 二日町用水堰 80 郡上市 大井用水堰 84 郡上市白鳥町 白鳥床止め 55 郡上市白鳥町 越佐上用水堰 88 郡上市白鳥町 剣用水堰 78 郡上市白鳥町 万場用水堰 81 郡上市白鳥町 名皿部用水堰 58 郡上市 五町用水堰 136 郡上市 美並用水堰 90 郡上市 中濃用水堰 152 保戸島用水堰 100 661 長島町 長良川を舞台にした作品 [ ] 歌謡 [ ]• 長良川の晴れ()- 作詞・作曲: 編曲:• () - 喜多郎が長良川を上流から下流まで見て感じとったそのままを音楽で表現し創り上げた作品。 交響詩「長良川」() - ソプラノ・ソロ管弦楽による壮大なである。 1976年、、團伊玖磨による「川のうた」と「火の宴」の2楽章構成。 () 文芸 [ ]• 『長良川』() - 第64回受賞• 『篝火』() - 元恋人・を題材とした作品。 『南方の火』(川端康成) - 同上 その他 [ ] 長良川河畔で行われている• 岐阜市ならびにの長良川河畔におけるは、日本で唯一の鵜匠による( 御用鵜飼)である。 に、この川から名前をとった「」という(1番艦)がある。 またを走る臨時にも「」の名が冠されている。 岐阜市のを起点とするからまでの長良川左岸河川敷に、往復5kmのランニングコース・が整備され、6月3日に「走り初め」が行われた。 長良橋下流の長良川河畔で、7月最終に主催のが、8月第1土曜日に・主催のが開催される。 どちらも打ち上げ数3万発、観客動員30万人 - 40万人を数える、日本有数の大規模な花火大会である。 このほか郡上市、美濃市の長良川河畔でも、小規模だが花火大会が開催されている。 長良橋上流にある鏡岩水源地で取水した伏流水をに使用した、「」が4月1日より地元企業・伊奈波商會より発売された。 長良川河畔のや道の駅など長良川流域を中心に約200ヶ所で販売され、地域住民や観光客より好評を得ている。 2017年7月には炭酸水「長良川タンサン」が姉妹商品として同社より発売された。 また市橋水源地で取水した水道原水も2005年(平成17年)から水「長良川の雫」として販売されている。 かつては、長良川の様子を、にて放送していた。 漁業組合 [ ]• 郡上漁業協同組合• 長良川中央漁業協同組合• 長良川漁業協同組合 関連画像 [ ]• の葬儀のさい、天若日子命と間違えられたが怒り、破壊して蹴飛ばした喪屋が藍見川上流の喪山となったという。 喪山は現在の美濃市(旧・大矢田村)の喪山であり、喪山天神社がある。 、国土交通省中部地方整備局• 、国土交通省中部地方整備局 木曽川上流河川事務所• 、2004年7月1日朝刊28面、• ウォッちず. 国土地理院. 2013年1月5日閲覧。 中日本高速道路. 2013年1月5日閲覧。 ウォッちず. 国土地理院. 2013年1月5日閲覧。 郡上地域活性化協議会. 2013年1月5日閲覧。 YHAラフティング. 2013年1月5日閲覧。 ウォッちず. 国土地理院. 2013年1月5日閲覧。 プレストレストコンクリート工学会. 2013年1月5日閲覧。 ウォッちず. 国土地理院. 2013年1月5日閲覧。 PC設計NEWS. 三井住友建設. 2013年1月5日閲覧。 環境省. 122. 2013年1月5日閲覧。 、岐阜県商工労働部観光課、2012年7月28日• 、岐阜市上下水道事業部 参考資料 [ ]• 『』No. 76、、2010年11月 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ()()()• - 過去にクロージングで同河川の流れの映像を利用したことがある。 - 長良川にちなみ命名された、旧日本海軍のの一番艦。 - 列車名が長良川にちなんでいる。 外部リンク [ ]• - 岐阜県主導で進められている「長良川デジタルアーカイブプロジェクト」の成果物• 中部地方整備局• 下ノ叺橋 - 旧大滝橋 - 大滝橋 - 折立2号橋 - 喰栃橋 - 中川原1号橋 - 新井田橋 - 井田橋 - 宮ヶ瀬橋 - 天王橋 - 平成橋 - 中の島橋 - 郡上谷橋 - 大向橋 - 観音橋 - 下向橋 - 油島橋 - 藤の森大橋 - 大向橋 - 歩岐島大橋 - 歩岐島橋 - 平家平橋 - 長滝橋 - 上切橋 - 下向山橋 - 大芝原橋 - 第三上之保川橋梁 - 赤瀬橋 - 白鳥橋 - 奥美濃橋 - 中川原橋 - 越佐橋 - 大島橋 - 中津屋大橋 - 第二上之保川橋梁 - 中津屋橋 - 上万場橋 - 第一上之保川橋梁 - 万場橋 - 名皿部橋 - 釜淵橋 - 西河橋 - 大和橋 - 和合橋 - 中元橋 - 坪佐橋 - 報徳橋 - 勝更大橋 - 八幡IC橋 - 稲成橋 - 稲成側道橋 - 第六長良川橋梁 - - - 貝付橋 - 深戸橋 - 美並橋 - 講和橋 - 第四長良川橋梁 - - 赤池橋 - 野首橋 - 円空街道歩道橋 - 三城橋 - 郡南橋 - 福野農道橋 - 下田橋 - 吉田橋 - 勝原橋 - 第二長良川橋梁 - 白石橋 - 木尾橋 - - 神母橋 - 上河和大橋 - 洲原橋 - 新立花橋 - 第一長良川橋梁 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 名神高速長良川橋 - - - - - - - - - - - - - - ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。

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長良川の戦いとは

長良川 の 戦い

合戦の原因 [編集 ] (11年)名門に替わってのとなった斎藤道三は、(天文23年)に長男(庶長子)・義龍に国を譲り隠居した。 しかし、道三はしだいに義龍を「耄(おいぼれ)者」と考えるようになり、その弟のとを「利口者」だからと溺愛し、三男の喜平次には「 一色右兵衛大輔 」と名乗らせた。 長兄の義龍を差し置いて名門の姓と官途を与え、さらに2人の弟は奢り高ぶり義龍を侮るようになったため、道三と義龍の不仲は深刻なものとなった。 弘治元年()10月、義龍は病に臥せる振りをして奥 へと籠った。 道三が自身をし、寵愛する2人の弟いずれかを跡継ぎにするのではないかと考えた義龍は、対抗手段を取ろうと策をめぐらした。 開戦まで [編集 ] 翌11月22日、道三が山下(麓の井口)の私邸に出向いた隙に義龍は動いた。 2人の弟(喜平次、孫四郎)のもとに叔父・を使わせ、「自分は重病であり、時を待つのみである。 会って一言申し上げたいの入来されたい」と自分の傍に二人の弟を呼び寄せた。 道利が一計を図り、まず次の間 で道利が刀を置いた。 それに倣い、2人にも刀を置かせた。 対面の席で酒を振る舞い、酔わせてから寵臣のが太刀で殺害した。 なお、2人の弟を謀殺した義龍は山下の道三に使者を送り、その顛末を自ら道三に伝えた。 道三は驚き、急ぎ兵を集め城下の町を焼き払い逃走した。 道三は長良川を超えると山県のにまで逃れた。 翌年の雪解けとともに情勢は緊迫し、春にはついに合戦を行う事態となった。 戦闘と結果 [編集 ] 長良川の戦い [編集 ] 4月18日、初め道三は鶴山へと布陣した。 道三の娘婿であるのも、・を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島・東蔵坊で陣所を構えた。 そして同月20日辰の刻、義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、道三軍は鶴山を下りて長良川北岸に移動し、ここで両者は激突した。 なお、道三が国主となるまでの経緯もあって、重臣のをはじめ家中の大半は義龍を支持した。 義龍軍17500余名に対し、道三が動員できたのは2700余名と義龍軍が優勢であった。 合戦は義龍軍の先手・竹腰道鎮の突撃で始まった。 竹腰勢は円陣を組んで長良川を押し渡り、道三の本陣へと迫り、旗本に斬りかかった。 乱戦となったが、道三の指揮で竹腰勢は敗走し、旗本により道鎮は討ち取られた。 それを見た義龍は、自ら旗本を率いて川を越え陣を固めた。 この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門がを挑み、道三軍の柴田角内がそれに応じた。 勝負は柴田が長屋の首を挙げたことにより決すると、両軍とも全軍に突撃を命じた。 道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めるものの兵力では劣り、道三の前に義龍勢が押し寄せてきた。 道三勢が崩れて、が生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進して道三に組み付き、もみ合っていたところへ小牧源太が道三の脛を薙ぎ、首を斬り落とした。 これに忠左衛門は激怒したが、後の証拠として道三の鼻を削ぎ懐に収め、その場は退いた。 これにより、合戦は終わりを迎えた。 なお、信長は自ら殿軍として出向いていたものの、合戦には間に合わなかった。 戦後 [編集 ] 首実検を行い、その場所に道三の首が運ばれてきた。 これは唐の故事で、止むを得ない事情により父親を殺した者の名とされてきた(『』)。 しかしながら、義龍は弘治元年12月に「范可」と署名した禁制をに与えている。 道三と戦う前から范可と称しているのであるから、これは作者の創作である。 その後 [編集 ] 大良河原での戦い [編集 ] 長良川での勝利で士気の上がった義龍軍は、首実検を終えたあと大良口の信長の陣所にも兵を差し向けた。 両軍は大良の河原で激突し、信長側は山口取手介と土方彦三郎(の父)が討ち死にし、は義龍軍の千石又一と渡り合い馬上で膝を斬られて退いた。 この状況の中、ようやく信長に道三討ち死にの報が伝わった。 信長はまず雑人・牛馬を後方に下げると「は信長が引き受ける」と言い、全ての兵を川を渡って退かせ、信長自身は舟一艘で川に残った。 義龍軍の騎馬がいくらか川端まで駆けて来ると、信長はを撃った。 騎馬武者は渡河を断念し、信長は退却することができた。 尾張への影響 [編集 ] 斎藤道三の死は、隣国尾張にも影響した。 尾張上四郡を支配する「岩倉織田家」当主・は斎藤義龍と呼応し、清洲近くの下之郷 の村に放火した。 これに対し、信長は岩倉織田家の領地に攻め入り、岩倉付近の領地を焼き払った。 一方、尾張下四郡を支配 する「勝幡織田家」(弾正忠家)の家中にも、義龍や信安と呼応して信長から離反し弟・(信勝)を擁しようとする不穏な動きがあり、やがてこれは勝幡織田家の家督争いへと発展していく。 道三死後の美濃 [編集 ] 父・斎藤道三を討ち果たした斎藤義龍であったが、その後5年ほどで急死した。 家督は義龍の子・が継ぐが、尾張の織田信長のにより没落して美濃を追われ、後にののもとに身を寄せて信長に反抗を続けるも、において戦死したという。 ただし、龍興には複数の生存説がある。 織田家ではの弟・がをし、兄であるも重臣となった。 備考 [編集 ] 道三塚。 長良川氾濫のため、当初の場所から移動している。 岐阜市指定史跡 ( )。 俗説として義龍の実父は道三によって美濃を追われた前とする説があるが、江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述が出典であるため不明。 また、近年によって唱えられた説では、道三は重臣との対立によって義龍を擁した重臣達によって当主の地位を追われたため、義龍とそれを支持する重臣達を排除するためにこの戦いを起こしたとされている。 以前は『信長公記』の記述により、道三が最初に本陣を置いたのはと考えられていたが、現在は鶴山に置いたという説が有力とされる。 この合戦では道三に与したため、義龍により居城のを攻められ、辛うじて脱出したは流浪の生活が始まったとする説がある。 道三は、元家臣の長井忠左衛門・小牧道家(源太)・林主水らの追跡をうけ、くみつかれて脛を斬りつけられ、鼻を削がれた。 元家臣の小牧道家(源太)により、道三塚へ手厚く葬られた。 援軍に来た織田軍は間に合わず、斎藤利治(道三の末子)らの道三残存軍と合流し撤退を開始したが、斎藤軍の追撃を受けた。 信長自らをし最新のを使い追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。 長良川で対陣している最中に道三は、信長へ「美濃国譲り状」を記した。 脚注 [編集 ] [] 注釈 [編集 ].

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長良川の戦い

長良川 の 戦い

スポンサーリンク 大河ドラマ「麒麟がくる」 第17話あらすじ 信長の援軍 弘治2年(1556)4月、斎藤道三は我が子・斎藤高政(のちの義龍)と戦うため、大桑城を出て南の鶴山に馬を走らせていた。 どちらにつくか迷っていた明智光安は結局はこれまで明智家を取り立ててくれた道三に味方することを決め、鶴山を目指していた。 明智光秀も叔父・光安に従うことを決め、藤田伝吾(行政)らと共に鶴山へ急いだ。 その頃、尾張の清須城では織田信長が落ち着かない様子で歩き回り、帰蝶は黙々と写経をしていた。 帰蝶は父に勝ち目がないと感じ、越前に逃れるよう取り計らっていたが、道三がこれを拒絶したため愛想を尽かしていた。 高政軍の12,000に対し、道三軍はたったの2,000。 自業自得と道三を罵る帰蝶をよそに、信長は作戦次第でなんとかなると考え「助ける!」と言って出て行ってしまった。 帰蝶は「皆、愚か者じゃ!」と泣きながら信長を見送った。 スポンサーリンク 長良川の戦い 美濃では高政が長良川の南に陣を張り、道三が北に陣を構えていた。 高政の陣では竹腰道鎮が一番槍を任せて欲しいと願い出ていると稲葉良通(のちの一鉄)が伝え、高政はこれを許可した。 そして高政は自分が二番槍として続き、大将の威光を示して早々に決着をつけると宣言した。 いまは敵となっている者は、先日までは酒を飲み交わした仲間であり、高政の顔を見れば降参する者も出ると稲葉良通も計算していた。 道三の処分を聞かれた高政は「生け捕りにせよ」と命じた。 やがて、信長が国境まで援軍に来ていると聞いた高政は、道三と合流する前に信長を叩くよう稲葉良通に命じた。 的確な指示を行いながら、高政の頭には自分のとことに参陣していない明智一族のことが引っかかっていた。 光秀がこちらにいないということは、道三側に寝返っているということだった。 スポンサーリンク 親子の一騎打ち 早朝、ついに斎藤親子の争い、長良川の戦いが始まった。 高政軍は竹腰道鎮を戦陣に突撃を開始した頃、、光秀は道三の陣に向かい疾走していた。 途中、高政の軍に行く手を阻まれたが、藤田伝吾らが相手をし、光秀は脚を負傷した光安を尻目にひたすら道三のところを目指した。 戦況は一進一退で序盤こそ道三勢が優勢に見えたが、兵力に勝る高政勢が次第に押し始め、形勢は逆転していった。 そして高政が自ら大軍を率いて戦場に出たことで勝敗が決定的となる。 道三の陣では周りが逃げ出していく中、仁王立ちした道三が川辺で命令を下している高政を見つめていた。 そして道三は馬で走りだし、「斎藤道三見参!高政!一騎打ちじゃ!」と乗り込んでいった。 重臣たちに守られていた高政は道三の悪あがきに応じるように重臣を下がらせ、刀を抜いた。 刃を交えつつ、高政が「命までは取らぬ!わが軍門に下れ!」というと、道三は「己を偽り、人を欺く者の軍門には下らぬ!」と返す。 そして道三が「父の名を申せ!」と叫ぶと、高政は「わが父は土岐頼芸様!土岐源氏の棟梁ぞ!」と返してきた。 これを聞いて道三は「そなたの父はこの斎藤道三じゃ!成り上がりの道三じゃ!」と笑うと、高政は怒り「黙れ!この者を討ち取れ!」と周りの者に道三の相手を任せた。 同じ頃、駿河を脱出した駒と菊丸が明智荘を目指し、美濃と三河の国境まで来ていた。 その後、戦場から戻った光秀は光安の無事を確認していると、藤田伝吾から高政の軍勢が明智城に進軍しているとの報せを受ける。 光秀の戦いはここから始まるのである。

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