斎藤 道 三 織田 信秀。 斎藤道三と対立した信長の父・信秀はどんな人物だったの?

斎藤道三と織田信長はどのような関係だったのか?

斎藤 道 三 織田 信秀

織田信長は父信秀の長男なの?三男なの? 織田信秀(おだ のぶひで)は子供が非常に多く、 男子 12名、女子も10名以上と言われています。 織田信長研究家の谷口克広(たにぐち かつひろ)氏の説によれば、• 信広(のぶひろ)• 秀俊(ひでとし)(信時)• 信長(のぶなが)• 信勝(のぶかつ)(信行)• 秀孝(ひでたか)• 信包(のぶかね)• 信治(のぶはる)• 信興(のぶおき)• 信照(のぶてる)• 秀成(ひでなり)• 長益(ながます)( 有楽斎)• 長利(ながとし) と言うように、 長幼の順はなるようです。 信長は順番から云えば、 信秀の三男のようです。 次に、 織田信秀の正室土田(どた・つちだ)氏の嫡出子は、三男信長、四男信勝、六男信包ですので、、嫡出子から見ると、 長男信長、次男信勝、三男信包となります。 この織田弾正忠家の場合では、 順位を別にした資格者は、 信長以外は、 信勝と、 信広となります。 信勝は信長に何かあった時の控え選手で、非嫡出子の長子信広は信長・信勝のふたりに何かあった場合の押えと言う立場となります。 或る時、備後守が国中、那古野にこさせられ、・・・嫡男織田吉法師殿に、一おとた、林新五郎。 二長、平手中務丞。 三長、青山与三右衛門。 四長、内藤勝介。 是らを相添へ、御台所賄の事平手中務。 ・・・那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云ふ所へ新城を拵へ、備後守御居城なり。 御台所賄山田弥右衛門なり。 不満分子の重臣たちは、 暴れん坊で自分達が制御不能の信長より、 従順そうな次男信勝の方が、自分達の云うなりの主君になる可能性が高く都合が良いと考えていたのでしょうね。 信秀としては、不満を持つ重臣たちの圧力に負けて嫡男信長の廃嫡などしようものなら、自身の政権崩壊にもつながりかねないと言う気持ちもあったでしょうし、、ただでさえ対外的に四面楚歌の信秀にあって、『 お家騒動』など起こしている時期ではなかったと言う理由もあったのではないかと思われます。 そんな事が、信秀が前述のようなセレモニーを強行した理由ではないでしょうか。 しかし、 戦国時代と言うのは、自分の家臣に至るまで油断の出来ない、常に緊張を強いられる時代であったことに改めて気づかされますね。 (画像引用:) 信秀正室土田御前はなぜ兄信長より、弟信勝を可愛がったの? 一時期一世を風靡(ふうび)した歴史作家 津本陽氏のベストセラー『下天は夢か(げてんはゆめか)』では、『 信長は生まれおちたときから癇(かん)がつよく、母の愛が薄かった。 母はすなおな弟の勘十郎信行をかわりがり、ともに暮らしていた。 』とあります。 じつは これが通説なのですが、よく考えてみると実際こんな母親がいますでしょうか。 実の長子は誰でもかわいがるのがごく普通の感覚だと思うのですが、どうでしょう。 その後生まれた二人目の信勝からは、父信秀はそうでもなかったようで、土田御前は手元で信勝を育てることが出来、その差が憶測を呼びこんな表現になったのではないかと推測します。 その証拠に、 長じてもずっと信長側には別段生母土田御前を嫌っているそぶりはなく、弟の謀叛の時も一回目は母の助命願いを聞き入れて信勝を許していますし、 信長が居城を移すたびにこの母もきちんと安土城の時も同道して同居しています。 本当に土田御前が信長を嫌っていたら、母はさっさとどこか信長の顔の見えぬところへ隠居するでしょうし、見ようによっては、同居していて可愛がっていた弟信勝が謀反をおこしたのですから、母もそそのかしたと勘繰られ無事でいられるかどうか、激しい性格の信長のことですから過激なことをしたに違いありません。 しかし なにも起こらず、信長と土田御前は以後もずっと、普通の親子のように過ごしているところをみると、信長による実弟信勝誅殺の状況設定とか、信長のキャラクター作りをする為の作り話なのかもしれませんね。 或は、当時の 『織田信長、大うつけ者キャンペーン』の一環としてのプロパガンダなのかもしれません。 (引用: 守『信長公記 備後守病死の事』インターネット公開版) とあり、、、 3月3日に死去されたことが分かりますが、没年の記載がなく、実は何年に亡くなったのか不明なのです。 その他の資料によると、天文18年(1549年)の事であったとの記載が多いようですが、この天文18年3月3日以降に信秀自身の署名の書類が散見されることから、 天文18年3月3日の病没と言うのは誤りのようです。 信長は、これ以前から既に信秀の代行として事務書類の発行を行っていますので、実質的な政務は信長が引き継いだ形が出来ていたと言えそうです。 信長の家督相続に、行動で異議を唱える親族・重臣たち 信長の家督相続に関しては、父信秀の死去とともに形の上では、自動的に継嗣に決まりましたが、実際は、認めない一族郎党・親戚一同が多かったようです。 先ずは、信秀死去の直後に今川に寝返って居城の鳴海城に今川を引き入れた 山口左馬助・九郎二郎親子でした。 天文弐年癸丑四月十七日 織田上総介信長公、十九の御年の事に候。 鳴海城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿御日を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。 沙汰の隈りの次第なり。 ・・・ 一、中村の在所に拵え、父山口左馬助楯籠る。 か様に候ところ、四月十七日、一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あかり候のところ、・・・九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候。 ・・・ 一、上総介信長、三の山より此のよしを御覧じ、則ち、あか塚へ御人数寄せられ候。 ・・・巳の刻より午の刻までみだれあひて、扣き合っては退く、・・・鎗下にて敵方討死、・・・上総介信長公衆討死三十騎に及ぶなり。 ・・・さて、其の日、御帰陣候なり、 (引用:) とあります。。。 山口親子の離反は織田信秀の死去(3月3日)の直後だったと言いますので、 ひょっとすると父織田信秀の没年は天文21年(1552年)ではなくて、天文22年(1553年)の3月3日だったのかもしれませんね。 いずれにせよ、この後も信秀死去の影響は続きます。。。 次は、 本家の清須織田家の家老たちが叛乱を起します。 一、八月十五日に清洲より、坂井大膳、坂井甚介、川尻与一、織田三位申し談じ、松葉の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉の並びに、一、深田と云ふ所に織田右衛門尉居城、是叉、押しなべて両城同前なり。 人質を執り堅め、御敵の色を立てられ候。 一、織田上総介信長公、御年十九の暮八月、此の由を聞かされ、八月十六日払暁に那古野を御立ちなされ、稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸り付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津口へ御かかり候。 (引用:) ここは、守山の叔父 織田信光と共同で鎮圧を行ないます。 これから、織田信長の尾張平定戦が始まります。 信秀の跡取りが19歳の若造の信長でしたので、信秀の武威に推されて従っていた腕自慢たちが立ち上がって、織田家の跡目を取ろうとした訳です。 実績で従わせることの出来なかった信長は、知恵を絞って機略でもって軍事対立を乗り越えて行きます。 低い身分から成り上がり、立身出世した父織田信秀の身代を護るために若き信長は、孤軍奮闘して親類相手に更に大化けして行きます。 このように、 織田信長の家督相続は、スムーズとは云い難く、大変なものとなりました。 スポンサーリンク 美濃のまむし義父の斎藤道三は、娘聟の信長をどう思っていたの? 美濃斎藤家と尾張織田弾正忠家の婚姻理由 そもそも戦国の梟雄 斎藤道三が、 織田信長の舅になった理由は、信長の父信秀と道三の取決めでした。 道三自身も執拗な織田信秀の領内侵攻に手を焼いていたこともあり、織田方からの申し入れに応じることしました。 さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき。 然る間、何方も静謐なり。 (引用:) さらに、『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』では、、、 明智家は、東美濃随一の名家にして、一族數多ありて、殊に光繼の子息、皆以て知勇を兼備の者共なれば、今明智家と縁を結べば、東濃の諸家歸伏し、大事の手には一方の助けともなるべき大家なるを以て、思慮深き秀龍故に、遠計を察して、契を結びし所なり。 然るに小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。 其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。 歸蝶の方といふ。 叉鷺山殿ともいふ。 一、四月下旬の事に候。 斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。 対面ありたきの趣、申し越し候。 此の子細は、此の比、上総介を偏執候て、聟殿は大だわけにて候と、道三前にて口々に申し候ひき。 左様に人々申し候時は、たわけにてはなく候よと、山城連々申し候ひき。 見参候て、善悪を見候はん為と聞こえ候。 ・・・ 古老の者七、八百、・・・公道なる仕立てにて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、・・・先ず、山城道三は、町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し候。 其の時、信長の御仕立、髪はちゃせんに遊ばし、・・・ゆかたびらの袖をはずし、・・・御腰のまわりには、・・・ひょうたん七つ、八つ付けさせられ、虎皮、豹皮四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、・・・ ・・・人に知らせず拵えをかせられ候を、さヽせられ、御出立ちを、御家中衆見申し候て、さては、此の比たわけを態と御作り候よと、肝を消し、・・・縁を御上り候のところに、・・・早く御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する貼御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。 暫く候て、・・・道三出でられ候。 ・・・御座敷に御直り候ひしなり。 ・・・互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。 ・・・やがて参会すべしと申し、罷り立ち候なり。 ・・・あかなべと申す所にて、猪子平介、山城道三に申す様は、何と見申し候ても、上総介はたわけにて候。 と申し候時、道三申す様に、されば無念なる事に候。 山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事。 案の内にて候と計り申し候。 今より己後、道三が前にして、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。 (引用:) 少し長くなりましたが、周知の有名な逸話ですね。 道三は信長と対面することにより、信長の器量を理解したようです。 その証拠は、、、 一、去るほどに、駿河衆岡崎に在陣候て、・・・村木と云ふ所、駿河より丈夫に取出を相構へ、駿河衆盾籠り候。 ・・・御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。 併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何とおぼしめし、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣わされ候。 道三かたより、正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、・・・、 見及ぶ様体日々注進へと申し付け、同じことに、正月廿日、尾州へ着き越し候き。 一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆御盾籠り候村木の城へ取り懸げ、攻めさせられ、・・・城内手負死人、次第貼に無人になる様に、降参申し候。 ・・・翌日には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、是より那古野に至って御帰陣。 一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で候て、今度の御礼仰せられ、廿七日、美濃衆帰陣。 ・・・ (引用:) とあり、 織田信長は、なんと今川軍の侵攻に対抗するために、出陣する その留守番を美濃の斎藤道三に頼んで、 道三は要請に応えて千名の兵を那古野城の守備をおこなって、使命達成後何事もなく美濃へ帰ったと言うのです。 舅の斎藤道三は、娘聟の織田信長のために兵力を出して、留守の那古野城の守備を受け持っているのです。 これだけの信頼感をお互いに抱いたと言う戦国期には奇跡のような話が達成されていました。 つまり 織田信長は、見事に舅斎藤道三を味方に付けることに成功していたと言う事で、信長の素晴らしい 外交勝利だと言えます。 織田信長の父代わり、傅役(もりやく)平手政秀はなぜ死んだの? 通説では? 天文22年(1553年)1月13日に、織田信長の傅役(もりやく)である家老平手政秀(ひらて まさひで)が切腹しています。 これは、信長の父信秀の葬儀での振る舞いも含めて行動に反省がない為、諫めるための『諫死(かんし)』だと言われています。 『信長公記』では、どうでしょうか。 一、平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二罰監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。 惣領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持候。 三郎信長公御所望候ところ、にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免候へと申し候て、進上申さず候。 信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。 三郎公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。 一、さる程に、平手中務丞、上総介信長公実日に御座なき様体をくやみ、守り立て験なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候。 実際に平手政秀は、織田家中の調整役を務めており、反信長派の動きに歯止めがかからなくなり、抑えきれなくなった 責を負って切腹に及んだと見られます。 結果政秀の死後、抑えていた信長と反信長派の衝突は始まり、確実に力をつけていた信長が徐々に勝利を収め、尾張統一を達成して行きます。 信秀の側室となった八重も神信仰となりました。 その後信秀は正室土田御前を娶り、八重が実家に信長を伴って戻されていた折、 八重は神信仰となっていたその信仰問題で実家と揉めて、 なんと一族に殺害されてしまいます。 時は流れて信秀の死後、家督を継いだものの求心力が今ひとつの信長に、本願寺派の今川義元の侵攻問題が宗教問題を絡めて動き始め、尾張地区の土豪も神信心の織田信長よりも、本願寺の今川へ心寄せる者が出始めます。 信秀の信頼厚かった平手一族も裏では本願寺派一向宗徒であると言う噂が信長の耳にも入り始め、言わば 織田家に対する忠誠心の再確認の意味で、信長は平手政秀の長男五郎右衛門に、駿馬の献上を命じます。 ところが、五郎右衛門は、以前の出陣の折に腹心の部下を信長に処刑された恨みも手伝い、汚らわしい神信仰の信長に献上は出来ぬとばかりに断ります。 これで疑心を深めた信長は、言い訳に来た平手政秀に『母の死の真相を知っていた』事をばらします。 愕然として真っ青になった平手政秀が、慌てて平手の庄に帰るのを見た 信長は、平手一族の逃走・謀叛を恐れて兵を出して館を取り囲みます。 結果、平手政秀はのどを突いて自害し事を収めます。 と言う説ですが、これは同時に『なぜ信長の母、信秀正室土田御前は信長を嫌ったか?』の答えにもなっています。 徳川三代将軍家光が、二代将軍秀忠正室お江与の方に嫌われた理由と同様に自分の生んだ子ではないと云う話です。 平手政秀の娘八重が生んだのが信長で、信秀正室土田御前が生んだのが弟信勝であったと云うことですね。 諸説色々ありますが、平手一族のその後の没落を考えると、八切説はかなり説得力を持つものです。 真相は分かりませんが、武田信玄との『三方が原の戦い』で織田軍からの与力として平手汎秀(ひらて ひろひで)が出陣するも、まるで見殺しにされたように討死し、その後 信長が平手家の再興を認めずお家断絶となって、歴史の表舞台から消えたことを考えると、 八切説も筋が通っているように思われますね。 まとめ ふつうに考えて、母の言う事も、傅役のジイの言う事も聞かない、粗暴な跡取りと云うものは、父の勘気を食らって『廃嫡』されることが多いような気がします。 こんな中で、どう信長は生き延びて行ったのか、非常に興味のあるところです。 そうした事から、織田信長の尾張統一時代での実像は、『通説』が出来上がっているだけにわかりにくくなっているようです。 信長は12人兄弟の3番目ですが、家督の継承順位は1位でした。 父信秀は、幼少時から信長に英才教育を施し、信長もそれに応えて文武に励みました。 馬術の訓練もあり、領内を隈なく巡って地勢を熟知し、領民の生活にも精通し、人心掌握の勘所は心得ていたものと考えられます。 武辺一辺倒の武者達からは、さぞ 生意気な小僧だと見られていたことでしょう。 『信長公記』の記事ではありますが、初陣を自分で指揮したというのは、事実のような気がします。 母の土田御前との関係については、その後の母に対する扱いがスマートであることから、記述したようなことが事実ではないかと思います。 通説が事実なら、信長の性格だったら放り出すか消しているんじゃないでしょうか。 すべては、嫡子信長を溺愛する信秀パパの教育熱心さが問題を引き起こしたような気がします。 信秀以来の平手政秀の織田家に対する貢献を考えると、信長が爆発的に大物になり始めて行く時期と、一向宗との衝突時期が重なったことが不幸を招いたようです。 他の戦国大名にも言えることですが、 彼らは膨大に膨れ上がる戦争資金を得るために、本来アンタッチャブルな寺領にまで手を入れていて、それがそもそも寺側との対立を生んでいたのでしょう。 これはもう信仰の問題じゃありません。 そして、一向宗派の過激性がそれを武力解決する能力をなまじ持ち合わせていたことから、深刻な武士社会との軋轢を生んで、戦乱の時代に拍車を掛けてしまったと言う不幸ですね。 天下を目指し始めた 信長の直面する敵は、室町幕府と本願寺宗門でした。 信長の場合は、これを打ち破って、平定させた直後に、室町幕府の亡霊のようなものに足をすくわれる形になりました。 やはり、戦国時代はまだ終わってなかったのかもしれませんね。

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濃姫(帰蝶)とは?織田信長の妻の最後など、その生涯を解説!

斎藤 道 三 織田 信秀

【目次】• なお、各人物は諸系図などの記録を元に年齢順に並べています。 ただし、実際の年齢順序は不明です。 くらの方【大橋重長室】(姉、?-?) 信長の姉と伝わり、織田家臣の大橋重長に嫁いでいる。 『尾州雑誌』大橋重長の妻について「重長ガ妻ハ信長公ノ御姉クラノ御方也」とあり、『系図纂要』には大橋重長の子・長将の生母を「信長公姉」と記している。 重長の子に生母不明の織田勘七郎信弐(のぶすけ)がおり、彼は 天正9年(1581年)2月の馬揃に「御連枝衆」の一員として馬乗していると伝わっているが、この織田勘七郎信弐が "くらの方" の子ではないかと考えられている。 没年は不明。 女子【神保氏張・稲葉貞通室】(姉、?-?) 信秀長女と伝わっている。 時期は不明だが越中守山城主の神保氏張に嫁いだ。 天正3年(1575年)には2人の間に子・氏長を設けた。 しかし氏張は、 天正6年(1578年)に信長と会見以降、越中平定の命令をうけたが、これを進められずに失脚。 その結果2人は離別となった。 のちに信秀娘は稲葉一鉄の嫡男・稲葉貞通の継室となって男子三人、女子二人をもうけた。 没年は不明。 信長の姉となると 天文3年(1534年)以前生まれとなるが、子を設けた時期を考えると明らかにおかしいので信長の妹と考えられている。 このため信秀長女という伝承も間違っている可能性が高い。 犬山殿【織田信清室】(姉、?-?) いぬやまどの。 信秀二女と伝わる。 犬山城主の織田信清に嫁いだ。 夫の信清は信定(信秀の父)の子信康が父であるから、いとこ同志の結婚ということになる。 信清は尾張統一の戦いでは信長と協力関係にあったが、のちに不和となって敵対関係となる。 永禄7年(1564年)には居城の犬山城を信長に落とされて甲斐の武田信玄のもとへ逃亡し、犬山鉄斎と号し信玄の御伽衆となっている。 彼女は信清と離別となり、信長死後は織田信雄の庇護下にあったようだ。 『織田信雄分限帳』に「犬山殿」の名がみえる。 信雄から化粧料を給されて余生を送ったのであった。 没年は不明。 女子【斎藤秀龍室】(妹?、?-?) 信秀三女という。 史料による確かな裏付けはないが斎藤秀龍は道三のことであり、その側室と考えられている。 没年は不明。 女子【苗木勘太郎室】(妹?、?-?) 信秀四女と伝わる。 時期不明だが、美濃苗木城主の苗木勘太郎に嫁いだ。 この苗木氏は東美濃に大きな勢力を誇る遠山一族である。 2人の間に1女をもうけたが、その子は 永禄8年(1565年)に叔父である信長の養女となり、甲斐の武田勝頼に嫁いだ。 没年は不明。 お市の方【浅井長政・柴田勝家室】(妹、1547-1583年) 信秀五女と伝わる。 有名な浅井三姉妹(茶々・お初・お江)の母である。 天文16年(1547年)に生まれ、信長の妹のほか、異説に従兄妹ともいわれている(『以貴小伝』)。 信長が近江の浅井長政と同盟をした際、長政に嫁いだ。 長政との間には浅井三姉妹と嫡男万福丸をもうけている。 長政の居城である小谷城で暮らしていたが、やがて信長が朝倉義景を攻めたことで浅井長政と手切りとなる。 天正元年(1573年)に信長が小谷城を落とし、浅井を滅ぼした際には落城直前で救出されている。 その後、お市は岐阜城で浅井三姉妹と暮らしたというが、一説に兄弟の織田信包の保護下にあったともいう。 信長死後の織田家の覇権争いでは政略によって柴田勝家と再婚となるが、勝家が秀吉に敗れ、 天正11年(1583年)に夫・勝家とともに自害して果てた。 37歳であった。 ちなみに浅井三姉妹は、茶々が豊臣秀吉の側室に、お初は京極高次に嫁ぎ、お江は江戸幕府2代目の徳川秀忠の正室となった。 小田井殿【織田信直室】(妹、1552-1573年) 信秀六女と伝わる。 小田井城主の織田信直に嫁いだ。 天文21年(1552年)に誕生、母は池田政秀の息女・養徳院、信長の乳母を務めた人物である。 2人との間に長男信氏、次男忠辰、長女(牧野宮内少輔室)が生まれている。 夫・信直の一族は織田三奉行の一つ「藤左衛門家」の系統で信直の父・織田信張は信秀・信長の2代に仕えた将であった。 天正元年(1573年)に他界、その翌年に夫・信直も伊勢長島一向一揆攻めで戦死した。 女子【織田信成室】(妹、?-?) 信秀七女と伝わる。 時期は不明だが尾張小幡城主の織田信成に嫁いだ。 2人の子に正信がいる。 夫の信成とは従兄妹同士であり、信成の父は守山城主織田信光(信秀の弟)であった。 ちなみに信成は 天正2年(1574年)の長島一向一揆で討死している。 お犬の方【佐治為興・細川昭元室】(妹、?-1582年) 信秀十一女と伝わり、はじめ佐治為興に嫁いでおり、長男の与九郎一成、次男の中川久右衛門秀休の2人をもうけている。 佐治氏は尾張知多郡の土豪で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いており、夫の為興は結婚して信長から「信」の字を拝領し、 "信方" と称している。 その信方は 天正2年(1574年)に長島一向一揆で討死を遂げた。 その後まもなくの 天正4年(1576年)頃、幕府の管領家である細川晴元の嫡男・昭元と再婚。 このときの婚姻で、羽柴秀吉が奔走したということが史料にみえる。 天正10年(1582年)、本能寺の変の後にまもなくして他界した。 女子【津田出雲守室】(妹、?-?) 信秀九女、津田出雲守室。 事跡は一切ないため不明。 女子【飯尾信宗室】(妹、?-?) 信秀十女と伝わる。 奥田城主の飯尾信宗(尚清とも)に嫁いだ。 信宗の父、飯尾定宗は信秀の叔父にあたり、飯尾氏の養子に入って奥田を居城としたという経緯がある。 なお、史料で「信宗」という名は系図類で記されているが、発給文書では「尚清」と署名されている。 『系図纂要』によれば、信宗との間に子・敏成をもうけている。 没年は不明。 野夫殿【津田元嘉室】(妹、?-?) 信秀十一女と伝わる。 諸史料に津田九郎次郎なる者に嫁いだとあるが、この津田九郎次郎が津田元嘉とみられている。 津田元嘉は信長に仕えて主に奉行として活躍したようであり、本能寺の変で二条御所で信忠と共に討死にしている。 小林殿【牧長清室】(妹、?-?) 信秀十二女と伝わる。 尾張小林城主の牧与三右衛門長清に嫁いだ。 夫・長清の父も織田信定の娘(信秀の姉妹)を娶っているから織田氏とは二重の縁であった。 長清が小林城主であったことから彼女は小林殿と呼ばれたという(『尾張志』)。 本能寺の変の後は、信雄の庇護下で余生を送り、 天正15年(1587年)に他界している。 女子【丹羽氏勝継室】(妹?、?-?) 丹羽氏勝の継室。 生没年・生母・名などは不明。 『寛政重修諸家譜』に、丹羽氏勝の記述に「室は某氏の女 継室は織田備後守信秀が女」と記してあるだけである。 記録からは信長の妹か姉なのかもわからない。 ちなみに岩崎城主の丹羽氏勝ははじめ信秀の弟・信次の家臣であり、のちに信長に仕えた。 しかし、 天正8年(1580年)に林通勝らとともに信長によって追放されている。

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【刀剣ワールド】斎藤道三|戦国武将

斎藤 道 三 織田 信秀

斎藤道三 「斎藤道三」(さいとうどうさん)の出自については、実はよく分かっていません。 父は「長井新左衛門尉」(ながいしんざえもんのじょう)、別名「松波庄五郎」(まつなみしょうごろう)とされています。 この父である長井新左衛門尉に関しても不明な点が多く、もとは武士でありながら、事情があって浪人となったということです。 斎藤道三は、11歳で京都の「妙覚寺」(上京区)へ入り、「法蓮房」(ほうれんぼう)の名を受け、僧侶となります。 その後20歳で還俗(げんぞく:出家した者が俗人に戻ること)し、油問屋「奈良屋又兵衛」の娘を妻に娶り、油商人に転職。 「漏斗(じょうご)を使わず、油を一文銭の穴に通します。 油がこぼれたらお代は頂きません」との口上で道行く人の気を惹き、商売を大成功に導いたのでした。 しかし、行商に行った先で、武士から「その力を武芸に注げば良い武士になれるものを」と言われたのをきっかけに一念発起。 斎藤道三は油商人をやめ、槍と鉄砲を学んで達人となり、念願の武士になります。 今では斎藤道三という名前で広く知られるようになりましたが、「道三」と名乗るようになったのは、隠居のため寺に入って以降のことです。 道三は法号であって、最終的に「斎藤利政」(さいとうとしまさ)という名に落ち着きました。 斎藤利政ではなく、その後に「斎藤秀龍」(さいとうひでたつ)を称したという説もあります。 実は、斎藤道三は生涯のうちに何度も名前を変えており、幼少期に法蓮房の名をもらい受ける前は、「峰丸」(みねまる)、油商人になってからは「山崎屋」(やまさきや)という屋号を称したとのこと。 のちに武士として主君に仕えるようになってからも、斎藤道三は何度か名前を変えました。 しかし、父の姓は「松波」である説が有力です。 そんな斎藤道三が斎藤姓を名乗るようになったのには、どのような経緯があったのでしょうか。 武士としての斎藤道三は、はじめに美濃国の小守護代「長井長弘」(ながいながひろ)に仕えます。 長井長弘は、美濃国守護の土岐氏の家臣にあたる武将です。 なお、長井氏に仕えるに至ったのは、以前入っていたお寺のつてだったと言われています。 斎藤道三はこの頃、「西村勘九郎」(にしむらかんくろう)を名乗っていました。 その後、斎藤道三は長井長弘のもと、その武芸と才覚で頭角を現し、美濃国主・土岐氏の次男「土岐頼芸」(ときよりなり)に一目置かれる存在となります。 当時、美濃国は「」以降内紛続きの土地でした。 1525年(大永5年)には、長井長弘の反乱により、土岐氏はもはや安泰とは言えない淵に立たされていたのです。 守護の座は土岐氏のままでしたが、政治的実権は長井長弘が握っていました。 これでは、土岐頼芸を立てても斎藤道三は権力を得ることができません。 斎藤道三にとって、長井長弘はすでに邪魔な存在になっていました。 土岐頼武 そして、1527年(大永7年)、土岐氏内で家督争いが勃発。 土岐頼芸とその兄「土岐頼武」(ときよりたけ)、別名「土岐政頼」(ときまさより)との間で家督争いが起こると、斎藤道三は土岐頼芸側に付き、土岐頼武を追放しました。 この一件で、斎藤道三はますます土岐頼芸の信頼を得ることになります。 斎藤道三は、土岐頼芸の妾「深芳野」(みよしの)を側室として譲り受け、長男の斎藤義龍を授かりました。 さらに斎藤道三は、自分の主君である長井長弘を、行ないが悪いとして殺害。 1530年(享禄3年)のことです。 斎藤道三は、「長井新九郎規秀」(ながいしんくろうのりひで)と名乗りました。 さらに都合の良いことに、1538年(天文7年)、長井氏より位の高い守護代「斎藤利良」(さいとうとしなが)が病死。 これにて、斎藤姓を持って「斎藤新九郎利政」(さいとうしんくろうとしまさ)と名乗り、自らの地位を高めていきました。 ようやく美濃国の守護代・斎藤氏の地位をつかんだ斎藤道三の野望が、ここで潰えることはありません。 その頃美濃は、兄の土岐頼武を追い出したことで土岐頼芸が実質的な守護の座に就いていましたが、まだまだ状況は不安定。 周囲の朝倉氏や六角氏らを巻き込みながら、土岐氏の家督相続争いは続いていました。 しかし、こうした状況も徐々に収まりを見せ、1536年(天文5年)、土岐頼芸が正統な守護の座へ就任。 土岐一族内での和睦が進む中、1541年(天文10年)、突如として斎藤道三が土岐頼芸の弟「土岐頼満」(ときよりみつ)を毒殺します。 これをきっかけに、斎藤道三は土岐頼芸に反旗を翻すのです。 1542年(天文11年)には、土岐頼芸の居城「大桑城」(おおがじょう:現在の)を攻撃し、土岐頼芸とその子「土岐頼次」(ときよりつぐ)を尾張(現在の東部)へ追放します。 しかし、斎藤道三に手のひらを返された土岐頼芸は黙ってはいませんでした。 織田信長の父「織田信秀」(おだのぶひで)と「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の後援を得て、土岐頼芸は「揖斐北方城」(いびきたかたじょう:現在の岐阜県揖斐郡)と「革手城」(現在の岐阜県)を取り戻し、由緒正しい土岐一族の美濃国主復帰を目指します。 稲葉山城(岐阜城) そして1547年(天文16年)には、織田信秀が美濃へ攻め入ってきました。 「加納口の戦い」の開戦です。 斎藤道三は、当時居城とした「稲葉山城」(現在の:岐阜県岐阜市)に立てこもり、敵を迎え撃ちます。 大軍を引き連れた織田信秀でしたが、稲葉山城は難攻不落と名高いだけに簡単には落ちません。 一旦陣を組み直そうとしたのか、諦めたのか定かではないものの、夕刻が近付き織田信秀が兵を引き上げていたところに、斎藤道三率いる兵が一気になだれ込みました。 織田信秀は、弟の「織田信康」(おだのぶやす)をこの戦いで亡くし、さらに多くの兵も失う大痛手を受けたのです。 そして、命からがら逃げ帰ります。 土岐頼芸を立てて、虎視眈々と美濃国を狙っていた織田信秀も、加納口の戦いでの失敗を機に斎藤道三と和睦せざるを得ませんでした。 翌年の1548年(天文17年)、織田信秀と和睦した斎藤道三は、娘の帰蝶を織田信秀の長男・織田信長に嫁がせます。 この和睦により、1552年(天文21年)には土岐頼芸を再び追放。 斎藤道三は美濃国を完全に乗っ取り、国主として君臨するのでした。 帰蝶(濃姫) 斎藤道三は、ただ優れた先読み力で美濃国主まで上り詰めた訳ではありません。 土岐氏の家臣ではなかった斎藤道三が上に認められるには、強固な繋がりが必要です。 そこで、斎藤道三は娘達を次々と政略結婚させ、自身の権力の安定を図りました。 まず、美濃を掌握するために、土岐氏に仕える「稲葉貞通」(いなばさだみち)や、土岐頼芸の息子に娘を嫁がせています。 こうして信頼を獲得し、美濃を内側からじわじわと懐柔していったのです。 また、斎藤道三は娘を政治的に重要な相手に嫁がせるというやり方を、隣国との同盟にも使いました。 よく知られているのは、織田信長に嫁いだ帰蝶です。 同盟の証しとして娘を嫁がせることは珍しい話ではなく、戦国時代の常套手段でした。 これには逸話があり、「うつけと言われる織田信長が、真にうつけであれば命を奪え」と、斎藤道三は帰蝶に小刀を渡したのです。 これに対し、気概のある娘・帰蝶は「父上の命を奪うことになるやも知れませぬよ」と返しました。 斎藤道三は帰蝶を送ることに安堵し、あわよくば織田信長も消せるかもしれないとほくそ笑んだと言います。 鷺山城跡 斎藤道三の美濃乗っ取りは長期戦で、美濃に入り、土岐氏を追い出して事実上の権力者となるまでに約20年、美濃を完全に掌握するまでに約30年かかりました。 1554年(天文23年)、斎藤道三は家督を長男の「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)に譲ります。 美濃を完全に抑えたのは1552年(天文21年)とされていますから、わずか2年後のことです。 そして、道三と号して「」 現在の岐阜県岐阜市 へ隠居しました。 しかし、斎藤道三がそのまま隠居生活を送ることはなかったのです。 斎藤道三は、側室との間に儲けた斎藤義龍よりも、正室との間に生まれた「孫四郎」や「喜平次」を偏愛し、斎藤義龍の排除を考え始めます。 実は、斎藤義龍の誕生には疑惑がありました。 あくまで俗説とされていますが、土岐頼芸の妾・深芳野を側室にもらった月から斎藤義龍が生まれるまでの期間が短いのです。 「斎藤義龍は土岐頼芸の子どもではないか」という噂が流れた、あるいは何者かが斎藤義龍に土岐頼芸の子だと吹き込んだとも言われています。 斎藤道三の斎藤義龍に対する冷たい態度も相まって、やがて斎藤義龍は「本当の父は土岐頼芸であり、斎藤道三こそが敵ではないか」と考えるようになりました。 ただし、この話には裏があり、斎藤道三が美濃を乗っ取り、権力をほしいままにして政治的に独断を下していたために、美濃の有力者達は不満を抱いていたと言います。 斎藤道三を排除して斎藤義龍を立てれば、斎藤道三の独裁が終わり、自分達も何らかの権力を得られるかもしれないと考えたのです。 このように、家督を譲ってもなお斎藤道三の影響力は強く、本当は斎藤義龍に家督は譲られていなかったのではないかという説もあります。 いずれにしても美濃の有力者達の思惑通り、1555年(弘治元年)に斎藤義龍は行動を起こし、まず斎藤道三が可愛がっていた弟達を殺害しました。 親子の確執の末、1556年(弘治2年)に父・斎藤道三と息子・斎藤義龍による「長良川の戦い」が勃発。 斎藤道三の兵2,500に対し、斎藤義龍の兵は17,500で、圧倒的な戦力差がありました。 土岐氏家臣団で斎藤道三に味方する者は、ほとんどいなかったのです。 斎藤道三は、娘婿の織田信長に援軍を要請したものの間に合わず、討死。 斎藤道三は、これまで斎藤義龍を無能だと思っていましたが、その秀逸な采配を見て評価を間違えていたことを認め、後悔したと言われています。 享年63歳。 斎藤道三亡きあと、斎藤義龍は織田信長との仲が険悪になりました。 そうした最中、1561年(永禄4年)に斎藤義龍は34歳の若さで病死。 その息子「斎藤龍興」(さいとうたつおき)が家督を継ぎますが、1567年(永禄10年)、織田信長に稲葉山城を攻められ、は滅びます。 美濃国の乗っ取り劇は、これまで斎藤道三1代のことと言われ、戦国時代の下剋上の象徴的な出来事とされてきました。 しかし、この説は見直されつつあります。 還俗した油商人が主君らを欺き、最終的には国を乗っ取ったという話は、斎藤道三ひとりの手柄ではなかったと言うのです。 斎藤道三がひとりではなかったという根拠は、「六角承禎条書」(ろっかくじょうていじょうしょ)にあります。 これは土岐頼芸が身を寄せたとされる近江国(現在の)の守護大名・六角氏の書状です。 この六角承禎条書は、斎藤義龍の娘と「六角承偵」の子の結婚を取りやめるという内容。 結婚させない理由として、斎藤義龍の祖父つまり斎藤道三の父が僧侶から還俗して美濃の混乱を利用して出世したこと、斎藤義龍の父つまり斎藤道三は、主家を殺してその座を奪い取ったことが記されています。 書状を根拠に美濃の国盗りを見ると、斎藤道三は還俗してのちに長井家に仕えたあと、土岐氏三奉行まで上り詰め、その結果、長井新左衛門尉を名乗ったと言うのです。 斎藤道三が家督を継いだのは、父・長井新左衛門尉が死去したのちの1533年(天文2年)とされています。 つまり、この説からいくと、父と子2人の斎藤道三がいたことになり、親子2代に亘った国盗り劇だったことになるのです。 明智光秀 斎藤道三とは、親戚関係にあったと言われています。 明智光秀の父にあたる明智光綱の妹(明智光秀から見ると叔母)「小見の方」が、斎藤道三の正室なのです。 その「小見の方」と斎藤道三との間に生まれたのが「帰蝶」。 のちの織田信長の正室「濃姫」です。 帰蝶は明智光秀のいとこにあたるため、斎藤道三、明智光秀、織田信長の3人は親戚同士でした。 また明智一族は、斎藤道三の臣下だったとされており、明智光秀も斎藤道三に仕えていたと言われています。 この頃、斎藤道三は息子・斎藤義龍と対立を深めており、明智光秀は斎藤道三につきます。 しかし、1556年(弘治2年)に勃発した「長良川の戦い」により、斎藤道三は斎藤義龍に敗れ、討たれてしまいました。 当時の当主・明智光安(明智光秀の叔父にあたる)も、主君であった斎藤道三に味方をしていたため、明智一族の居城・は斎藤義龍によって攻められてしまいます。 斎藤義龍方に2日間攻撃されて、明智城は落城。 明智光秀は明智家復興を託されて逃げ延びますが、明智光安をはじめとする他の者は自刃することとなります。 主君・斎藤道三を失った明智光秀は、流浪の日々を送ることになりました。 二頭立波 斎藤道三が乗っ取った美濃の守護代・斎藤氏は、代々「撫子」(なでしこ)を家紋にしてきました。 しかし、斎藤道三はこの撫子紋を使わずに、自身の考案した「立波」(たつなみ)、あるいは「二頭波」(にとうなみ)や「二頭立波」と呼ばれる家紋を使うようになります。 この「立波紋」は、潮の満ち引きを表現。 斎藤道三は、潮の満ち引きと戦を重ね合わせてこの紋を創作しました。 人の力ではどうにもできないことがあるので、波を見極めるように、しっかり物事の流れを見極めて適切に動くことが大切だという意味があると言います。 また、斎藤道三の立波紋で特徴的なのが、波の左右に描かれた水飛沫です。 よく見ると右側に3つ、左側に2つあり、左右対称には描かれていません。 世の中には、割り切れないこともあるのだと表現しているとのことで、家紋ひとつにも、「マムシ」と呼ばれた男の人生観が良く表れていると言えるのです。 織田信長 これは、斎藤道三が娘婿の織田信長と初めて会見したときの言葉です。 斎藤道三が娘の帰蝶を織田信長の妻へと送り出したあとの話で、斎藤道三自ら織田信長に会見を持ちかけました。 当時、うつけ、つまり馬鹿者と評されていた織田信長がどんな人間なのか見極めてみたくなったのだと言われています。 会見場所は、斎藤道三の治める美濃と、織田信長の治める尾張の国境にあった「聖徳寺」。 1553年(天文22年)のことでした。 斎藤道三は当初、うつけと言われる織田信長を大した男ではないだろうと高を括っていました。 斎藤道三は、会見前に織田信長の行列を覗き見ていたと言いますが、織田信長の引き連れてきた兵を見て驚きます。 織田信長は、供に付けた者達に500挺の鉄砲と、500本の槍を持たせていたのです。 なかでも斎藤道三の度肝を抜いたのは、500本の長い槍でした。 当時使われていた槍は3. 6~4. 5mほどとされていましたが、織田信長が兵に持たせた槍の長さは6. 3mほどもあったのです。 斎藤道三は、織田信長の武力に驚いたと言います。 さらに斎藤道三を驚かせたのは、織田信長と会見場所で正式に会ったときのことでした。 斎藤道三が覗き見た会見前の織田信長は、無造作な髪に、着物を着崩し、腰にはひょうたんや派手なを差し、虎や豹の皮でできた半袴姿の、まさにうつけと言われてもおかしくない格好だったのですが、会見場にはきちんとした正装で現れたのです。 斎藤道三の織田信長に対する評価は変わり、うつけは真の姿ではなく、織田信長がわざとうつけを演じている有能な人物だと見抜きました。 そこで出てきたのが、この斎藤道三の言葉で、「私の子は将来、織田信長の門外に馬を繋ぎ、織田信長に従うことになるだろう」と家臣に言ったのです。 斎藤道三の織田信長への信頼は厚く、息子・斎藤義龍との戦になる前日、美濃を織田信長に託すことを遺言したと伝えられています。 「前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。 小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。 前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。 今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。 ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。

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