ペルシア 戦争。 古代ギリシアのオリンピックの特徴〜4年周期の理由や競技の種類〜

ペルシア戦争(ペルシアせんそう)とは

ペルシア 戦争

古代ギリシアので、4年に1度開催された オリュンピア大祭(古代オリンピック)は、近代オリンピックの起源となった競技会です。 聖火リレー、開催周期、理念など様々な伝統が今のオリンピックにも引き継がれています。 今回はその古代オリンピックの歴史や特徴、種目などについて詳しく紹介していこうと思います。 この記事の内容• 古代オリンピック(オリュンピア大祭、オリュンピア祭典競技とも)、古代ギリシアのエーリス地方・オリュンピアで4年に1回開催されました。 地中海世界最大級の競技会として、出身地、身分に関わらずギリシアポリス中から選手が集まり、自慢の力と技を競い合いました。 古代オリンピックは前8世紀から4世紀頃まで続き、ピーク期にはギリシアだけでなく世界各地から選手が集まったといいます。 古代オリンピックの開催地エーリス地方オリュンピアには、エーリスの祭神ゼウスの神殿が建てられていました。 古代オリンピックは今のオリンピックと違い、ゼウス始め様々な神()を崇める為の宗教的行事としての色合いが強い大会だったのです。 前2世紀にローマに征服されてからは、ローマ神を崇める祭典になりました。 そのため大会期間中やその準備期間などは、ポリス間のあらゆる戦争の休戦期間としていたのです。 現代のオリンピックが理念として「平和」を掲げている理由はここにあります。 古代オリンピックの開催周期は4年に1度でした。 現代オリンピックもその伝統にならっています。 この周期になった理由には諸説ありますが、最も有力なのは「古代ギリシア人が太陽暦を使っていたから」というものです。 一般的に使われている太陽暦の8年が、太陰暦の8年と3カ月にほぼ同じであることから、8年というサイクルは古代ギリシア人にとって特別なものでした。 その為最初は8年ごとに開催されるようになりましたが、8年では間が空きすぎるということで、後に半分の4年周期となった、といわれています。 関連記事: 競技名 説明 短距離走。 現代の200m競争に相当。 第1回大会から実施。 1スタディオン(約190m)の直線コースを走る。 ディアウロス走(中距離走) 中距離走。 現代の400m競争に相当。 第14回大会から実施。 ドリコス走(長距離走) 長距離走。 現代のマラソンに相当。 1スタディオンを一〇往復程度走る。 三種目で勝った者が優勝。 円盤投 円盤をより遠くに投げる能力を競う競技。 やり投 槍をより遠くに投げる能力を競う競技。 主に間接技(きめわざ)や押し出しを駆使し勝敗を競う格闘技。 三点先取で勝ち。 拳にグローブを着けた2人がリング上で打ち合い勝敗を決める競技。 戦意喪失か行動不能で勝者が決まる。 打撃技と組技を駆使し相手が戦闘不能になるまで戦う競技。 負けは死を意味した。 2,4,6頭の馬に二輪車を引かせ競争する競技。 転倒が多く危険性が高い。 走り高跳び 助走をつけて飛び越えるバーの高さを競う競技。

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ペルシア戦争

ペルシア 戦争

詳説世界史B(山川出版社)より 【 (以下、ペルシア)】 紀元前6世紀半ばに建国され、三代目のダイオレス一世の治世。 内政を整え、地中海貿易の要のフェニキア人や砂漠での交易の中心であったアラム人の活動を保護。 奴隷を使って農業を行っていたため、奴隷による反乱を最も警戒。 そこでスパルタ市民は7歳から軍人としての教育を受け軍を統制、6世紀半ば頃は既に ギリシア最強の陸軍国家として名を馳せるように。 ペルシアとアテナイ・スパルタの状況をまとめてみると・・・ ペルシアとアテナイには共通する 『交易』というキーワードが出てきます。 どちらも地中海やエーゲ海での交易を行っています。 地中海やエーゲ海の島嶼にあるポリスもペルシアと利害が対立するのが何となく見えてきますね。 もちろんギリシア沿岸のポリスとペルシア間の制海権を巡る対立だけではありません。 統一国家を持たないギリシアですから、 ポリス間の利害対立も生まれる構造となっています。 一方の スパルタは、 ペロポネソス半島の内陸国家で周囲を多くのポリスに囲まれています。 6世紀半ばには周囲の脅威をある程度一掃してますが、近隣には対抗ポリスもあった訳です。 そういったポリスに対抗するのに、紀元前6世紀末、周辺ポリスと緩やかな軍事同盟(= ペロポネソス同盟)を結んでいました。 以上のような背景を頭の片隅に置いてペルシア戦争について見ていきましょう。 ペルシア戦争のキッカケ・イオニアの反乱って? イオニア地方の諸都市は• 元々ギリシアの植民都市だったポリスが由来(ギリシアのポリスとの繋がりを持っていた)• ペルシア建国以前はリディア王国の支配下に置かれていた• ペルシアによるリディア侵攻の際、キュロス2世からのリディア離反勧告を拒否 という経緯で侵攻され、ペルシア支配下に置かれることに。 ペルシアからすると『信用ならない地方』というのがミレトスをはじめとするイオニア地方への印象だと思われます。 ペルシアによるイオニア支配 ペルシアによるイオニア支配は『 僭主を置いて内政に干渉する』という方法でした。 自治は認められていますが、地中海貿易の要となる土地だけに何かと口出しされることの多い場所でもあります。 そういった口出しを減らすには信用を得るのが一番と僭主は考えたのかもしれません。 ミレトスがギリシアのポリス間で発生した制海権を巡る抗争や内乱に首を突っ込んだのです。 ところが、ミレトスはじめイオニアは巨額の戦費を突っ込んだ上に敗北。 信用を得るどころか自身の立ち位置もポリス自体もヤバい立場に追い込まれます。 そこで目を付けたのがギリシア内で孤立しがちになった アテナイです。 アテナイの詳しい状況を見てみよう アテナイは 地中海貿易を中心とした交易国家ですが、当時は海賊が横行。 海賊行為を黙認したアイギナというポリスとアイギナを保護するアルゴスというポリスとは敵対関係にありました。 また、経済圏で優位になりつつあった アテナイを警戒していたのが スパルタ。 スパルタはペロポネソス半島内で盟主でしたから、必然的に ペロポネソス同盟に属したようなポリスとの関係も悪い状況にあった訳です。 アテナイは四面楚歌の状況を打開しようとペルシアの総督に同盟を求めますが、総督がアテナイに突き付けたのはペルシアへの服属。 アテナイ内部はペルシアへの服属か独立か揺れに揺れ、出した結論が 独立を勝ち取ること ペルシア内部の反乱も『服属』ではなく『独立』を目指すと決めた理由の一つになったことでしょう。 アテナイはイオニアの反乱に手を貸そうと決意します。 アテナイのような豊かなポリスが参加したことは、他の地中海貿易でペルシアと利害対立していた島嶼のポリスによる反乱への参加も促すことになります。 何しろギリシアのポリス間で発生した制海権を巡るトラブルに手を出されている以上、いつ自分達に手を出されるか分かりませんからね。 イオニアの反乱の結果は…?? ギリシアの一部ポリスによる支援もむなしく、イオニア地方の反乱は鎮圧されています。 イオニアの反乱では• ペルシアは僭主制に限界を感じ、民主制を敷くようになる• 反乱を支援したエーゲ海島嶼のポリスが苛烈な弾圧を受ける などの変化が起こりました。 アテナイでは島嶼が弾圧される様子を見てペルシア服属派も息を吹き返したようですが・・・ エーゲ海の島々が陥落したことで• ギリシア本土が直接ペルシアからの脅威を受けるようになった• その様子を見ていたアテナイと敵対していたポリスもペルシアへの危機感を募らせた ことで、ポリス間同士のイザコザは後回しにしてペルシア対策を優先させた方が良いという機運がアテナイ以外の地域で高まります。 後の戦いでアテナイがスパルタに援軍要請、スパルタもアテナイからの援軍要請に応えているのは、対ペルシアの協力体制がギリシア内部で整いつつあった表れでしょう。 アテナイにとって、ギリシア最強の軍事国家が味方に・・・となれば士気も相当上がったと思われます。 結局、アテナイも服属しない方向に何となく進んでいったのです。 ペルシア戦争の勃発 以上のような経緯からギリシアのポリス連合とペルシア間は険悪な事態に陥ることとなり、紀元前500年、反乱に手を貸したアテナイに対してペルシアが遠征軍を差し向けるまでに至ります。 これが ペルシア戦争のはじまりです。 ペルシア戦争の中でも重要な局面が• マラトンの戦い• サラミスの海戦• プラタイアの戦い です。 それぞれ、どのような戦いだったのか見ていくことにしましょう。 マラトンの戦い 紀元前490年、アテナイの中でも経済的に豊かになった層が作り出した 重装歩兵団が活躍。 圧倒的に不利だった アテナイ側の戦力で ペルシアを破った戦いです。 ちなみに、この喜ばしいニュースを伝えるべくマラトンからアテナイまでの約40㎞の距離を走りぬいたことから『マラソン』競技が生まれています。 走りぬいた兵士はアテナイが勝ったことを伝えると力尽きて息を引き取りました。 こうして地元に伝わったアテナイ勝利の朗報は、アテナイだけでなくギリシア中に伝わり沸きに沸きました。 また、 マラトンの戦いでの勝利によって、 アテナイ内部では完全に独立派の意見が大勢を占めることになります。 サラミスの海戦 マラトンの戦い後もいくつかの戦闘を経たうえで起こった紀元前480年の サラミスの海戦。 アテナイは元々地中海貿易に従事していたこともあって、船舶の技術はかなり先進的でした。 指揮官にも恵まれ、 テミストクレスの指導によって海軍が充実した状態でペルシアとぶつかることに。 ギリシア連合軍は彼の指揮の下でペルシア軍を大敗させます。 この海戦で使われたのが 三弾櫂船と呼ばれる船です。 サラミスの海戦(wikipedia)より 漕ぎ手が上中下3段に並んで腰かけ、いっせいにオールを動かす。 高速のままへさきで敵船に体当たりし、沈没させる戦法であった 詳説世界史B(山川出版社) この戦法により、重装歩兵の装備の用意が出来ない比較的貧しい層も活躍。 それまでアテナイでの民主制と言えば、『財産の制限付き』の参政権。 ですが、ここまで戦争で 貧困層が活躍したため発言力を得るようになったのです。 さらに言えば、 サラミスの海戦はペルシア戦争を膠着させる一戦となりました。 ペルシア側の戦意を削ぐことに成功します。 プラタイアの戦い サラミスの海戦後に起こった、紀元前479年の戦いです。 サラミスの海戦と同様、 ペルシア戦争の行く末を決定づけた戦いとも言われています。 これまで紹介した戦いの中ではイマイチ存在感を出せていないスパルタ。 プラタイアの戦いでギリシア最強の軍事国家としての真価を発揮しています。 35万 (ペルシア)対 11万 (ギリシア連合軍/うちスパルタ重装歩兵10000人、軽装歩兵35000人)の戦いでしたが、右翼のスパルタ軍だけで大半のペルシア兵を討ち取ったとも言われています。 特にスパルタの軍勢は非常に強く、ペルシア側の精鋭部隊を投入しても突破できなかったという逸話が残っていますが、この戦いでは背後をつかれてギリシア側は敗退。 それでもギリシア最強の名に恥じない活躍ぶりだったそうです。 デロス同盟の締結 ペルシア戦争での攻防が一進一退する中、エーゲ海周辺の多くのポリスの間でアテナイを盟主とした デロス同盟が紀元前478年に結ばれています。 ペルシアの復讐に備えての同盟でした。 その一方で• サラミスの海戦である程度戦況が落ち着いている中、テミストクレスがアテナイ以外の船舶を密かに焼き払おうと計画していた• スパルタの王族の一人で指揮官を務めた人物がペルシア国王の娘を娶る代わりに、ギリシアをペルシア支配下に服属させるといった内容の書状を送っていた なんて話が複数出ているように ギリシアのポリス間も一枚岩ではありませんでした。 内通の話は同盟国間から顰蹙を買い、アテナイ寄りの姿勢のポリスが増加。 スパルタは急遽その王族を裁判にかける事態となっています。 ギリシア内で高い地位を築いていたスパルタとしてはデロス同盟の締結もアテナイ寄りのポリスの増加も面白くない事態です。 少しずつ亀裂が走ることになりました。 ペルシア戦争の終結 局所的な戦いではペルシア側の勝利もあったのですが、 ペルシア戦争全体で見た場合は ギリシア側の勝利となっています。 あれだけ強大なオリエントの専制的支配体制から独立と自由を守り切ったことでポリスは自信をつけました。 そんなギリシアのポリスですが、ペルシア戦争で中心的役割を果たしたアテナイの変化は非常に大きなものでした。 先ほど挙げた 三弾櫂船を使った サラミスの海戦で 無産市民の発言権が高まったことはお話しした通りです。 ここではアテナイの変化とアテナイを取り巻く環境についてお話していきましょう。 アテナイにおける民主政の完成 この 無産市民の発言権の高まりを背景に、紀元前5世紀半ばごろに将軍 ペリクレスの指導の下で アテナイにおける民主政を完全なものにしています。 アテナイの民主政は現代の日本とは異なる 直接民主政で、代議制ではないのが特徴です。 アテナイ市民全員が政治参加するスタイルです。 政治参加してたら他の仕事はどうするの?という疑問が出てきますね。 その疑問、 アテナイでは 奴隷制で解決させています。 奴隷にそういった仕事を振り当てていたのです。 奴隷は参政権を持ちません。 また、参政権を持たないと言えば、アテナイで生まれ育った女性や外国人居留者にも参政権はありませんでした。 この様なスタイルの民主政は、デロス同盟を結ぶ諸国に急速に広まっていきます。 以上のような経緯で民主政は、民主主義の考え方を生み出し実行したという点で歴史的にも意義の大きな出来事となっています。 アテナイを取り巻く環境の変化 アテナイがペルシア戦争で発展し、周囲から一目置かれるようになったのとは反対に、それ以外の地域はペルシアの脅威は取り除かれただけで アテナイ程の恩恵に与れませんでした。 特にペロポネソス同盟の盟主・ スパルタ は アテナイの勢力拡大に対して 大きな危機感を抱くこととなります。 これが後々大きな災いに発展していくのですが、また別の記事で書かせてもらいます。

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カリアスの和約とペルシア戦争の完全終結に至るまでのアテナイとスパルタを中心とするギリシア連合軍の反撃

ペルシア 戦争

背景 [ ] ペルシアの侵略に対して対応が混乱していたギリシアの諸都市であったが、ペルシア遠征軍がへ侵入するに及んで、連合してこれを迎撃することを決した。 先にテンペ峡谷に出兵したギリシア軍は、のにペルシア遠征軍の巨大さを説かれてに撤退していたが、再び会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオン沖で、クセルクセス本隊をで迎え撃つことを決議した。 テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つものだったが、スパルタはによって全軍を出仕できず、率いる先遣隊300のみを派遣した。 他のアルカディアの諸都市もオリンピア祭のために少数の部隊のみを動員し、祭りの終了とともに本隊を派遣することとした。 テルマ(現)を出立したペルシア本隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣を張った。 その兵力規模のあまりの大きさにギリシア軍は恐慌に陥り、スパルタを除くペロポネソスの兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対した。 このためレオニダスはテルモピュライでの決戦を決意し、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。 ギリシア軍はテルモピュライの街道にあったポキス人の城壁を再建し、これを最終的な防衛ラインとした。 また、この城壁は戦闘にも利用された。 すなわち、戦闘を行う軍はこの城壁の前方に布陣して合戦し、戦闘をしない軍は城壁の後方に退避することで、できるだけ犠牲を最小限にしようとしたのである。 クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、兵力の差からギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。 しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた。 両軍の戦力 [ ] ギリシア陸戦部隊 [ ] 史料によって人数が異なるが、ここにはヘロドトスとの述べる数字をまとめる。 内訳 ヘロドトス ディオドロス スパルタ重装歩兵 300 300 スパルタ軽装歩兵 ——— 1,000 テゲア兵 500 3,000 (王指揮下のギリシア兵) マンティネイア兵 500 オルコメノス兵 120 アルカディア各都市の兵 1,000 コリントス兵 400 プレイウス兵 200 ミュケナイ兵 80 テスピアイ兵 700 テバイ兵 400 400 ロクリス・オプンティア兵 不明 地区の全兵力 1,000 マリス兵 ——— 1,000 ポキス兵 1,000 1,000 合計 5,200 7,700 ヘロドトスはスパルタ軍として参戦したのは300人隊のみであるとするのに対し、ディオドロスはスパルタ軍には300人隊に加えて1,000人のスパルタ軽装歩兵が参戦したとしており、ディオドロスが1,000人と伝えているロクリス・オプンティア(テルモピュライの真東)の全兵力を加えたギリシア側の総数は7,000人前後と推定される。 ディオドロスのみが記載するマリス(テルモピュライの真西)は直前にペルシア軍本体に占領されており、実際には参戦していないと思われる。 またこの戦いの直後にロクリスはペルシア軍に占領され、はペルシア側の同盟国となった。 最後まで戦闘に参加したのは、スパルタ、 、の兵 合計1,400人~2,400人 のみである(ディオドロスによると、最後まで戦闘に参加したのはスパルタ兵とテスピアイ兵のみとしているが、合計500人と少ない数字を挙げている)。 ペルシア陸戦部隊 [ ] 歩兵 1,700,000 騎兵 80,000 アラビア人の駱駝部隊・リビアの戦車部隊 20,000 ヨーロッパより参加の歩兵 300,000 合計 2,100,000 以上はヘロドトスの述べる数字である。 ヘロドトスによるとこのほか水兵が541,610人おり、総兵力は2,641,610人。 また非戦闘員が同数帯同したと仮定して遠征部隊の総勢を5,283,220人と見積もっているが、これらは明らかにペルシア遠征軍の実数としては過剰であり、実数とは認められない。 ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、15,000人から30万人まで様々な推定がなされている。 古代から古代への翻訳の過程で単位が1桁間違って伝わったという解釈に従うと、ペルシア陸戦部隊の総数は21万人となる。 20世紀以降の学者の見解に限ればペルシア陸軍の総数を10万人以下とする推定が多く見受けられるが、20万人以上とする説も有力である。 戦いの経過 [ ] テルモピュライの戦いとでの動き テルモピュライは、古くからから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険なとに挟まれた街道は最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。 クセルクセスの命によってテルモピュライに突入した・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった。 スパルタのを先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、率いるを投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。 ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ2. 5メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうを形成してペルシアの大軍と戦った。 狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。 この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった。 翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。 ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。 クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって 山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。 ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。 この道を防衛していたの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた (一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。 夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。 結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人と400人、兵700人の合計1,400人(またはスパルタの軽装歩兵1,000人を加えて2,400人)は、共にテルモピュライに残った。 朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。 クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーラン・ラベ(来たりて取れ)」であった。 決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前10時頃に全軍の進撃を指示。 レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。 それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た。 凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。 攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。 ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回に及び、スパルタ軍は優勢であった。 しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた。 彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。 ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。 テーバイ兵を除いて全滅した。 によれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。 この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。 また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとが一時戦場を去った。 エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。 翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした。 戦いの影響 [ ] この戦いでレオニダスとスパルタ兵は英雄として讃えられ、テルモピュライには討ち死したギリシア全軍の碑ほか、スパルタ軍のみに対する碑も置かれた。 ヘロドトスによれば、 旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に、 我等かのことばに従いてここに伏すと。 (ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われたとされている。 この碑文は古来よりが草したものとされていたが、ヘロドトスは作者を記しておらず、現在では彼の作ではないとみられている(現在はにこの言葉を刻んだ石碑が設けられている)。 テルモピュライには現在もなお、レオニダスとスパルタ兵の記念碑が建てられており、観光名所としても有名である。 スパルタとともにテルモピュライに残ったテーバイ兵は、彼らが全滅するに及んでペルシア側に投降し、ペルシア遠征軍に組み込まれた。 テルモピュライを突破されたギリシア軍はアルテミシオンからの後退も余儀なくされた。 テルモピュライ・アルテミシオン防衛線の崩壊は、イストモス以北のポリスにとっては破滅を意味するものであった。 ペルシア遠征軍はテルモピュライを南下し、テッサリア人の手引きでポキス全土を劫略、通過するすべてのポリスを焼き払った。 防衛線が突破されたことを受けて、、の市民は次々と街を退去し、ペルシア軍は少数の市民が残る街を占拠した。 しかし、レオニダスとスパルタ兵が時間を稼いだおかげでギリシア軍はの準備が整い、海上の決戦ではペルシア軍に歴史的大勝利を収めることができた。 また、遠征中の奴隷反乱を恐れてに参戦するか迷っていたスパルタの王族は、「レオニダスの仇を討て」という神託を得て、レオニダスの仇討ちのためにペルシア全軍と戦う決意を固めた。 プラタイアの戦いでは10,000のスパルタ重装歩兵が動員され、30万と伝えられるペルシア全軍をスパルタ軍だけで打ち破った。 敵の最高指揮官であるも討ち取り、レオニダスの復讐は果たされた。 陸上における決戦でもペルシア軍を叩きのめしたギリシア軍は、ギリシア本土からペルシア軍を一掃することに成功し、ギリシアはペルシア戦争に勝利した。 出典・脚注 [ ] []• ヘロドトス『歴史』巻7,175• ヘロドトス『歴史』巻7,206。 スパルタなど他のペロポネソス半島の諸都市が本隊を送らなかったのは、最初からイストモスを防衛する意図があったためと推察する向きもある。 仲手川良雄『テミストクレス』p120-p122。 ヘロドトス『歴史』巻7,207• ヘロドトス『歴史』巻7,210• ヘロドトス『歴史』巻7,210• ヘロドトス『歴史』巻7,211• ヘロドトスはこの情報をもたらした人物について、複数の説を挙げている。 ヘロドトス『歴史』巻7,213-216• ヘロドトス『歴史』巻7,218• スパルタとテスピアイの兵は自らの意思で残ったが、テーバイ兵については、レオニダスによって無理矢理留め置かれた。 ヘロドトス『歴史』巻7,222• ヘロドトス『歴史』巻7,223• ヘロドトス『歴史』巻7,224-225• ヘロドトス『歴史』巻7,228• 参考文献 [ ]• Philip de Souza『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing• 、松平千秋訳『歴史(下)』、岩波文庫、• 仲手川良雄、『テミストクレス』、中公叢書、• 馬場恵二、『ペルシア戦争 自由のための戦い』、教育社 関連項目 [ ]• (この戦いを描いた映画。 1962年制作)• (この戦いを描いた作のコミック。 2007年に映画化)• (上記コミックの映画化)• (この戦いを題材にした小説。 著) 外部リンク [ ] : ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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