あわれなる 意味。 源氏物語『若紫/北山の垣間見』解説・品詞分解(1)

源氏物語『若紫』(1)解説・品詞分解(若紫との出会い・北山の垣間見)

あわれなる 意味

経緯 [編集 ] 後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。 歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした。 また、歌謡の歴史などについて、別に口伝集十巻を残した。 書名の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌のこと。 伝来 [編集 ] 『梁塵秘抄』の名は『』第十四段に見える。 また『』に20巻と書かれている。 しかし、近代までは口伝集巻第十が『』に収められたのみで、他の部分は失われたと考えられていた。 しかし1911年(明治44年)、らによって巻第二、巻第一と口伝集巻第一の断片、口伝集の巻第十一から第十四が発見された。 そして大正から昭和にかけて、佐佐木の校訂による本がとから刊行された。 したがって『梁塵秘抄』の中の歌が一般に知られたのは比較的新しいことである。 構成と内容 [編集 ] 『梁塵秘抄』はもと本編10巻、口伝集10巻だったと見られている。 しかし現存するのはわずかな部分のみである。 また、口伝集の巻第十一以降については謎がある。 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。 のような法文歌である。 また、神社への道行や、風景を歌ったものも多い。 口伝集 [編集 ] 口伝集は各ジャンルの歌に関して書きつづったものだと考えられている。 現存するのは巻第一のほんのわずかと、巻第十、それに巻第十一から第十四のみである。 巻第十一から巻第十四には、実際の歌い方が書かれている。 しかし歌い方の伝承は絶え、現在解読は困難である。 佐佐木信綱によれば、これらは後白河法皇自らの撰によるものではないという。 のちに一つにされ「口伝集巻第十一」以下の題名を付けられたと考えられていない。 もしこれが『梁塵秘抄』に加わるとすれば、総数は20巻以上となり、『本朝書籍目録』の記述に矛盾する。 現在発行されている古典全集の多くは、巻第十一以降を省き、口伝集の巻第一と巻第十のみを収めている。 巻第十一以降を見ることができるのは、一般的には岩波文庫版だけである。 各巻の内容 [編集 ] 本編 [編集 ] 巻第一 [編集 ] 21首のみ残る。 巻第二 [編集 ] 545首残る。 写本は1冊のみ現存する。 巻第三 から 巻第十 [編集 ] 欠巻 口伝集 [編集 ] 口伝集 巻第一 [編集 ] 文庫版にして2ページほどしか残っていない。 ・・風俗・今様の起源について語る。 口伝集 巻第二 から 巻第九 [編集 ] 欠巻。 娑羅林・只の今様・片下・早歌・初積・大曲・足柄・長歌・田歌などについて書かれていたらしい。 口伝集 巻第十 [編集 ] 撰者、後白河法皇の今様への関わり。 10代の頃から今様を好み、昼夜問わず歌いまくり、歌の上手がいると聞けば召して聞き、歌いすぎで3度も喉をつぶしたという。 口伝集 巻第十一 から 巻第十四 [編集 ] 前述の通り、もとは別の書であったと考えられている。 歌い方の心得や、音律や拍子などが記されているようであるが、内容は難解。 巻十一は、『』とも称される。 校注文献 [編集 ]• 『梁塵秘抄・・歌謡』 小林芳規・校注 〈56〉、1993年• 『梁塵秘抄』 榎克朗校注、〈〉、1979年• 『新訂 梁塵秘抄』 校訂 、ワイド版2015年• 『梁塵秘抄』 編訳、ちくま学芸文庫、2014年 関連文献 [編集 ]• 「村木嵐さんと歌う 梁塵秘抄」(・京都新聞毎週連載:2018年10月1日第1回〜2019年4月29日第31回) 関連人物 [編集 ]• - 著書のある日本文学者(で新版)• - 同上• - 同上• - 著書のある歴史学者• - 旧版『日本古典文学大系 73 和漢朗詠集 梁塵秘抄』(岩波書店)を注解担当• - 「梁塵秘抄」を現代に蘇らせて唄っている邦楽歌手。 で「梁塵秘抄うたの旅」• デュオ- 「梁塵秘抄」を現代に蘇らせる琵琶演奏家。 後藤幸浩、水島結子デュオ。 「仏は常に」「うたえやうたえ」.

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源氏物語『若紫/北山の垣間見』解説・品詞分解(1)

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた 『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。 『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。 紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある 『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、 『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。 参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます) 石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫) [古文・原文] 40段 虫は鈴虫。 ひぐらし。 蟋蟀(きりぎりす)。 はたおり。 われから。 ひをむし。 蓑虫、いとあはれなり。 鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐ろしき心あらむとて、親のあやしき衣(きぬ)ひき着せて、「今、秋風吹かむをりぞ、来むとする。 侍てよ」と言ひ置きて逃げて去(い)にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあはれなり。 額づき虫(ぬかずきむし)、またあはれなり。 さる心地に道心おこして、つきありくらむよ。 思ひかけず、暗き所などにほとめきありきたるこそ、をかしけれ。 蝿こそ、にくきもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ。 人々しう、かたきなどにすべき物の大きさにはあらねど、秋など、ただ萬(よろづ)の物に居(ゐ)、顔などに濡れ足して居るなどよ。 人の名につきたる、いとうとまし。 夏虫、いとをかしう、らうたげなり。 火近う取り寄せて物語など見るに、草子の上などに飛びありく、いとをかし。 蟻はいとにくけれど、軽び(かろび)いみじうて、水の上などをただ歩みにありくこそ、をかしけれ。 [現代語訳] 40段 虫は鈴虫。 ひぐらし。 こおろぎ。 キリギリス。 われから。 ひおむし(カゲロウ)。 蓑虫は、哀れである。 鬼の生ませた子なので、親に似てこの子にも(人を襲い食らうような)恐ろしい本性があるだろうと思われて、女親が粗末な着物を引き寄せて、「今に秋風の吹く季節になります。 迎えに行くので待っていなさい」と言い残してどこかへ逃げ去っていったのも知らず、秋風の音を聞いてそれと知って、八月の頃になると、「お父さん、お父さん」と儚げな声で鳴いているのが、とても哀れである。 額づき虫、これも哀れな虫である。 そのような小さな体で仏教の修行をしたいという気持ちを起こし、頭をいつも地面に付けて歩くという修行(常不軽の礼拝の行)をしているとは。 思いがけず、暗い所でホトホトと頭を地面に付けて歩いている姿は面白い。 蝿こそは、憎いものの中に入れるべきもので、こんなに可愛らしさのないものはない。 人と同じようにして、目の敵にするほどの大きさはないのだが、秋などは、あらゆるものの上に止まり、人の顔などにも湿った足で止まるのだ。 人の名前に蝿と付いているのは、本当に疎ましい。 夏虫は、とても趣きがあって可愛らしい。 火を近くに寄せて物語などを読んでいると、本の上などを飛び回っているのがとても趣きがある。 蟻はとても憎らしいものだが、非常に身軽であり水の上でも歩けるというのは、面白いものだ。

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古典について教えてください。光源氏の誕生

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若山牧水 失恋の悲しみ 前の記事に記したように、若山牧水は、結婚を考えていた女性、園田小枝子に夫と妻がいたことがわかり、驚きながらもそれを受け入れていきます。 しかし、その理解は、牧水の愛の破局を意味するものでした。 牧水の短歌は、いよいよ恋愛の歌から、失恋の色を濃くしていきます。 ひとつの愛の終焉に伴う心境の変化がつぶさに詠われていくのです。 牧水と小枝子 心の断絶 君がいふ恋のこころとわがおもふ恋のさかひの一すぢの河 あなたが言う「恋のこころ」というものと、私が思う「恋」というものとの間に、一筋の河がある。 そのことに気が付いてしまった哀れな牧水なのでした。 憫(あは)れまれあはれむといふあさましき恋の終りに近づきしかな 互いに相手を愛し合うという心境は、相手を「憐れむ」心境へと変わっていく、それが恋の終りというものなのだというな牧水の内省と洞察です。 しかし、牧水には憎むという心はなかったということが救いです。 わがこころ女え知らず彼女(かれ)が持つあさきこころはわれ掬(く)みもせず 私の心を女は知ることができず、相手の浅い心の意を汲むこともわたしはしない 牧水は引き続き、二人のこころのかけ離れていることを訴えます。 恋の回想 そしてその後の歌 白粉(おしろい)と髪のにおひをききわけむ静かなる夜のともしびの色 俵万智さんは、二人の隔絶を歌いながら、そのあとに2人の交情を歌う歌が置かれてることを強調します。 おそらくこれは牧水の回想なのでしょう。 というのはその後に、 あはれそのをみなの肌(はだへ)しらずして恋のあはれに泣きぬれし日よ という歌があるからです。 さらに遡行して、牧水はまだ、小枝子に指も触れなかった日のことを思い出しているのです。 酒飲まば女抱かば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか さびしさを強調しているようで「しょせん酒を飲んだり女を抱いたりすることで埋められるような、その程度のさびしさではなかったのか」というのが、俵万智さんの解説。 「そのさびしさか」のリフレインは自問自答だと、俵さんは言います。 恋といううるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ来ぬ 恋という麗しいことばで自分をごまかすことに、少し疲れてしまった。 牧水の方は「恋」に違いなかったが、小枝子の方は、夫と子があることを隠していたのです。 小枝子の方はそれは「恋」とはいえない。 そのうちに思いは、自分の「生」全体に及ぶのです。 恋もしき歌もうたひきよるべなきわが生命(いのち)をば欺かんとて 恋も歌も、自分の命そのものを 欺こうとしての物だった。 根底にあったのは、牧水の「さびしさ」であったのでしょう。 小枝子の謝罪を待つ牧水 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詫ぶる子を見む 詫びて来よ詫びて来よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき 二首目は単純な歌ですが、牧水のどうしようもない辛さが伝わります。 そして牧水は、恋を詠む歌の終りに、「恋の終り」を継げます。 つまり、「恋」を題材とする、歌の想念が尽きたところが、歌人にとっての 「恋の終り」であるのです。 ひとりの自由 わが恋の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり 青草によこたわりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ わが行けばわがさびしさを吸ふに似る夏のゆふべの地(つち)のなつかし ここで、牧水は初めて「自由」という言葉を使っています。 愛の回想 きはみなき旅の途なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ かなしきは夜のころもに更ふるときおもひいづるがつねとなりぬる 寝巻に着替える時決まってその日とのことを思い出す、という意味の歌で、着替えの時に、というのが女性のような繊細さです。 恋愛の総括の歌 若き日をささげ尽くして嘆きしはこのありなしの恋なりしかな 秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしや人の忘られぬかな はじめより苦しきことに尽きたりし恋もいつしか終らむとする 五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾日をよろこびとせむ 一日だにひとつ家にはえも住まず得忘れもせず心くさりぬ 恋の終りの後は、もっと深刻な、牧水の心情が表されています。 「忘れがたみ」のこと わがために光ほろびしあはれなるいのちをおもふ日の来ずもがな ほそほそと萌えいでで花ももたざりきこのひともとの名も知らぬ草 この「いのち」というのは、小枝子が妊娠をして、里子に出した子供のことで、その子は病気になったと聞かされていました。 後に養育先で死んだとの連絡があり、このことが、小枝子の思い出と相まって、牧水を生涯苦しめることとなったようです。 牧水を苦しめた恋愛、しかし、この恋愛こそが、牧水を歌人として成長浅瀬たことは間違いありません。 作品を見れば、そのことが心に刻まれることでしょう。 『牧水の恋』俵万智著について 『牧水の恋』は俵万智さんの詳しい解説が一首ずつ短歌に添えられており、牧水の恋愛の軌跡がこれも良くわかるように書かれています。 牧水の初期短歌、「恋愛」が主題の本ではありますが、それだけではない若山牧水の短歌の魅力が堪能できますので、ぜひお手にとってお読みください。

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