金閣寺 小説。 【三島由紀夫】「金閣寺」〜完全な変質者による完全なる変質者の書

金閣寺 (小説)

金閣寺 小説

金閣寺の雪景色(京都市) 作者 国 言語 ジャンル 発表形態 雑誌掲載 初出 『』1月号から10月号 刊行 1956年10月30日(限定版と同時刊行) 装幀:(通常版) 装幀:(限定版) 受賞 第8回・1956年度(小説部門) 『 金閣寺』(きんかくじ)は、の。 三島の最も成功した代表作というだけでなく、近代を代表する傑作の一つと見なされ、海外でも評価が高い作品である。 のに憑りつかれた学僧が、それにするまでの経緯を告白体の形で綴ってゆく物語で、戦中戦後の時代を背景に、重度のの、との間に立ちはだかる金閣の美への呪詛と執着のなやが、硬質で精緻なで綴られている。 それまで三島に対し懐疑的否定的な評価をしていた旧文壇の主流派や左翼系の作家も高評価をし 、名実ともに三島が日本文学の代表的作家の地位を築いた作品である。 (昭和31年)、文芸雑誌『』1月号から10月号に連載された。 単行本は同年10月30日により刊行され、15万部のベストセラーとなった。 アンケートで、度ベストワンに選ばれ、第8回(1956年度)(小説部門)を受賞した。 文庫版はで刊行され、累計売上330万部を超えているロングセラー小説でもある。 翻訳版は1959年(昭和34年)の訳(英題:)をはじめ、世界各国多数で行われ 、1964年度の第4回国際文学賞で第2位を受賞した。 執筆背景・動機 [ ] 題材・モデル [ ] 『金閣寺』の題材は、1950年(昭和25年)7月2日未明に実際に起きた「」から取られたが、三島独自の人物造型、観念を加え構築し、文学作品として構成している。 三島の没後30年の2000年(平成12年)に全公開された「『金閣寺』創作ノート」には、より詳細な構想の過程が見て取れる。 構想には、「金閣寺放火事件」についてが述べたエッセイ「金閣焼亡」(1950年9月)からの刺激もあったとされる。 またが『論』を書く際に参考にした著の『』を勧められ、『金閣寺』の執筆以前に読んでいたとされる。 1955年(昭和30年)9月から、肉体改造()に乗り出した三島(当時30歳)は、「」の意味を模索し始め、その5年前に起った「金閣寺放火事件」の犯人・林養賢の行為(に対する反感)を、「美への行為」と見なすことで、そこに三島自身の問題性、文学的モチーフを盛り込み、自らの人生のを賭ける新たな素材とした。 また「創作ノート」には、〈林養賢は書かざる、犯罪の〉という記述も見られ、の風潮に違和感を持っていた三島が、「犯罪の形で表れる若者のプロテスト」に親近感を抱いていたと佐藤秀明は解説している。 三島は同年11月にに赴いたが、金閣寺()の直接取材や面談は断られたため、同じ異派のに泊まり、若い修行僧の生活を調べた。 金閣寺周辺取材について三島は、〈それこそ舐めるやうにスケッチして歩いた〉と語り 、、、近郊の、河口も丹念に文章スケッチされ、などは実際にの一軒に上がり、二階の部屋の内部の様子や、中庭に干された洗濯物までも詳細に記述されている。 さらに、どうやって調査したのか、直接取材を断られたにもかかわらず、金閣寺内の間取りや数を記した室内図や作業場内部の図まで克明に描かれている。 なお、金閣寺の前で雪の上のを踏みつける場面は、『祇園祭礼信仰記』の「北山金閣寺の場」でがの孫娘・雪姫(がモデル)を金閣寺の前で足蹴にする場面をヒントに創作したことを三島はに言っていたとされる。 実際の事件との違い [ ] 「」の犯人・林養賢も作中の〈私〉同様、であるなど共通点があり、実際の事件に仮託してはいるが、事実はあくまで創作の契機と素材をあたえたにとどまり、小説『金閣寺』は一個の文学作品であるから当然ではあるが、作中の人物はもとより、〈私〉の行動などは事実とはかなり異なる。 一例として、終結部分で、〈私〉は生きようとして小刀と()を投げ捨てているが、林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀でした(未遂に終わる)。 なお、この終結部に関して三島は、から「どうして殺さなかったのかね、あの人を」と質問され、〈小説で人を殺した経験は大分ありますが、どうも人を殺すのはむつかしい〉、〈生かすべき所で殺しちゃったり、殺すべき所で生かしちゃって、計画が齟齬したということがありますね。 あれは殺しちゃったほうがよかったんですね〉、〈でも、ぼく、人間がこれから生きようとするとき牢屋しかない、というのが、ちょっと狙いだったんです〉と語っている。 文体・自己改造 [ ] は硬質で理知的なものとなっており、三島は『金閣寺』連載中、自身の文体の変遷について、の〈清澄な知的文体〉、〈感受性の一トかけらもなく、あるひはそれが完全に抑圧されて〉いる文体を模写することで、〈自分を改造しようと試みた〉とし 、〈感性的なものから知的なものへ、女性的なものから男性的なものへ〉、〈個性的であるよりも普遍的〉なものを目指したと語り、〈作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ〉とし、自らが在るべきだと思う在り方(ゾルレン)を示すのが文体であり、その〈知的努力〉が主題と関わりを持てるとしている。 『金閣寺』の基本構造は、主人公が自身の過去を振り返ってするという設定で、これは『』の構造に似ていることがよく指摘されている。 三島は『金閣寺』刊行から約2年半後、〈やつと私は、自分の気質を完全に利用して、それを思想に晶化させようとする試みに安心して立戻り、それは曲がりなりにも成功して〉と述べており 、『仮面の告白』同様、『金閣寺』でも、自らのこれまでの気質や、実人生と相反する美学を克服し、次の段階を志向していた作品と見られている。 三島は『金閣寺』について、〈美という固定観念に追い詰められた男というのを、ぼくはあの中で芸術家の象徴みたいなつもりで書いた〉と語り 、また、『金閣寺』の映画化作品『』に主演したへのコメントの中では、自作に賭けた思いを次のように述べている。 君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。 監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。 ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう。 私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。 — 三島由紀夫「雷蔵丈のこと」 あらすじ [ ] へ突き出たの辺鄙な貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされて育った。 父から繰り返し聞くの話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。 体も弱く、生来ののため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、皆にからかわれ、極度の引っ込み思案となり、人に親しまれず、内攻したのために、に行った先輩が持っていた美しい短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。 また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしい明るさも恋愛もなく生きていた。 やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修行時代の知人がを務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。 金閣をまだ見ていなかった時は、金閣の美を恣に想像していたが、実物を目の前にして見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。 しかし戦況が激化する中、金閣も自分も共にで焼け死ぬかもしれない同じに思いを馳せると、金閣は的な美に輝いた。 溝口は、から続く金閣寺が永劫的と見られながらも、実はいつ破壊されるとも限らない、完璧で永遠の儚い美として捉え、その観念は自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化され、固定化されていた。 一方、病み衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。 母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じの中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。 目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。 同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。 彼は溝口のを馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心のをに変えてしまう存在でもあった。 戦争末期のある日、二人はのので、一人の美しい女が軍服の若いにを供しているのを見た。 女は男に促され、自身のからを鶯色の茶に注いだ。 溝口はその女に有為子を重ねた。 やがて、戦争が終わり、金閣と「私」(溝口)とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。 金閣寺のまわりにはを乗せたのなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。 溝口は住職のの計らいで入学した(仏教系大学)で、両足にのをもち、ぬかるみの中を一歩一歩進むような不自由な歩行で移動し、いつも裏庭で一人離れてを食べている級友・柏木と出会う。 一見した柏木の障害に自分のを重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、障害を逆手にして高い階層の女も籠絡している男であった。 障害を斜に構えつつも克服し、確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木を、一旦感銘しながらも不自然で刺々しい生き方だと溝口は思ったが、精神的な距離を置きつつ友人となった。 柏木の批評はいつも辛辣で、溝口の心の揺れや卑怯も鋭く指摘した。 溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとした時、目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。 もう一人の友人の鶴川が死んだ。 「事故」ということだった。 溝口の孤独な生活が又はじまった。 しかしそんな中でも、柏木から「斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、を教えて貰ったりすることで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻み、「外界」との通路を持つ柏木から学ぶことで「人生」を生きようとしていた。 そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。 その女はいつかの茶室で見たあの女だった。 しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。 溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。 溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、の花と戯れるを見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。 その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。 その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。 このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。 正月のある日、溝口は雑踏の中で、女()を連れて歩く老師に偶然、行き会った。 尾行されたと誤解した老師は溝口を叱咤した。 しかし翌日に呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。 その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。 以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。 溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。 自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになるようなことをし、その一方、溝口は人間同士が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、老師からゆるされ和解した自分が鶴川のような明るい感情になることさえ夢みていた。 だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。 これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。 溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。 学校からの注意が老師にもいった。 寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。 老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直った。 溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。 に向かいから裏の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念の啓示に搏たれる。 由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。 息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。 醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。 孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。 溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。 鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。 柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。 しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。 溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金でのに女を買いに行った。 金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。 万一のときのため()と小刀も買った。 その日が来た。 その夜は、寺に龍法寺のが来訪していた。 溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。 みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。 溝口はその言葉に、初めて空白になり、「隈なく理解された」と感じ行動の勇気が湧く。 溝口は、放火の行為の一歩手前にいた。 そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。 溝口は金閣寺に火を点けた。 燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。 拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し山の方へ駆けた。 火の粉の舞う夜空を、膝を組んで眺めた溝口はを喫み、ひと仕事を終え一服する人がよくそう思うように、「生きよう」と思った。 文壇での反響 [ ] 『金閣寺』は刊行同年の12月25日付のの「1956年読売ベスト・スリー」に、選考員10名中全員(、、、、、、、、、)の推薦を受けて選ばれ、この票をまとめたも「の風格」と高評価した。 当時の他の作家や文芸評論家たちの反響も総じて良好で、連載中から「傑作」と称され、評価が高かった。 戦後派文学に対し懐疑的で黙殺していた旧『』同人や文士を中心とした主流派の文学者も、三島を自分たちの正統な後継者と認め出し、それまで珍奇な異常児扱いであった三島が一目置かれるようになった。 また三島をの「狂い咲きの徒花」、芸術派と敵視していた文学者たちも、三島の才能や実力をそれなりに認めるようになった。 ごく一部には、が独走しているといったの辛口評もあるが 、雑誌の合評では、柏木の人物造型に「無理」があるという意見もありながらも、観念小説として計算が行き届いていることや、「幼時から父は、私によく、金閣のことを語つた」に始まる出だしの部分が優れていることが指摘され 、の、「今は文学作品が非常に少なくなつてゐるけれど、これは文学作品だ」という意見に対し、、も同意し、中島は、「これからの小説を書かうといふ人のためにこれを教材にするといいね」と述べている。 安部公房は、「この小説には、たしかに観念を追うと同時に、非観念の世界にくいこんでいこうとする意図がある」と評している。 それまで三島作品に対して辛口ぎみだったも、「三島として稀なる傑作」だと評し、社会ダネを材料にして「これだけ自分を表現しきつたところに感心した」と述べている。 中村光夫は、『』どころでない「危険性」のある作品、「大変なのある小説」だと評し 、は、これは「足で書いている作品」だと読み、そこが「偉いんだね」と、その労を褒めて、「画期的な大を彼のが足でやつたんだよ」と高い評価をしている。 は、『金閣寺』についての『』と比較し、小説にするなら「焼いてからのことを書かなきゃ、小説にならない」ため、「小説っていうよりむしろ」だとし 、「君のラスコルニコフは動機という主観の中に立てこもっているのだから、抒情的には非常に美しい所が出て来る」と評しつつ、三島が「抒情詩」という意図で書いたと思うと述べながら、三島の「魔的」な「」の力を認めて 、三島の「感じ方とか才能の性質」に、「何か新しいみたいな所がある」と述べている。 作品評価・研究 [ ] 三島文学の、近代日本文学の傑作として評価が定着している『金閣寺』には、数多くの評論や研究分析が尽きることなく、文芸的なもの、三島の気質や人生との関係から捉えたもの、実際の放火事件と比較したもの、的な見地のもの、語りの性質、小説の構造や論理を解明したもの、など多岐にわたっている。 まとまった論文で最初のものは、三島と同時代の作家・の評論があり 、三島の破滅願望やそれが不可能となった戦後社会に対する反感を看取しながら分析したものの先駆としてはやの論がある。 そして、この事件に「自己を含めた時代のの〈象徴〉」を見出し、それを「確実に所有するために、この〈象徴〉をによって再現すること」を希った三島にとって、「現代で正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きて見るほかはなかった」と中村は考察し 、三島が放火僧の青年に同時代人としての「連帯感」を感じ、その狂気に「挫折したの行為」を見ているゆえに、主人公の「内面生活」を、自身の「内面の論理で代償することほど自然なこと」はなく、「自分ので彼に告白させている」ため、そこには三島自身も「なかばしか意識しない〈詩〉が生まれている」とし 、この三島が試みた「偽者の告白」ともいえる「自我の社会化」は、「日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成である」と解説している。 は、三島の諸作品に見られる「による断絶の意識」は『金閣寺』の中にも、「重要な劇的な契機」としてあり、「日本の美の象徴」を放火するに至る主人公の「内的な動因」の中に、「敗戦は欠くべからざる重要な一環」としてしっかり組みこまれ、それが主人公にとって、金閣の「永続的な伝統美を一きわ魅力的なもの」とすると同時に、「やり切れぬ反撥をもかき立てずにおかぬもの」とする要因の一つになると解説している。 そしてそれは、敗戦下の「頼るべきものを失った日本人」にとり、「自国の美的伝統」が、「自信回復のためのほとんど唯一の手掛り」であったと同時に、「焦ら立たしいかぎりの内的呪縛の象徴」と映った奇妙な「二重性」とも重なり、「そうした伝統に対する愛憎共存の微妙な」を、三島は『金閣寺』において、まことに鮮やかに小説化して見せた」と佐伯は評している。 は、「戦時下の非日常」と「戦後の日常性」とで、金閣の像が大きく変貌する点から三島の問題性を捉え、主人公が終戦の日に〈金閣と私との関係は絶たれた〉と実感し、〈美がそこにをり、私はこちらにゐるといふ事態〉が再現された戦後の金閣に、〈不満と焦燥を覚え〉、〈疎外された〉ことに着目しながら、戦時下におけるたちが求めた「自我滅却の栄光の根拠」である「絶対者」への帰一が、「一つの世界の全体を象徴しうるようなもの」(「」)という形であったことを鑑みつつ、そういった性質の「自分を超えた絶対者」「絶対の他者」という存在が、常に三島の前に厳然とあり、その「他者と自己との間の橋を見いだすこと」が、三島の「唯一の文学的課題」だったとし 、「自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界」があり、「それから隔てられてある」ことは三島にとって耐えがたく、それゆえに、「相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う」のが、『金閣寺』のテーマだと考察している。 そして「完璧な全体性」はこの世で絶対不可能であり、三島にとって「としての天皇」も、「自分がそれから拒まれているところの〈なにものか〉」であり、〈金閣寺(美)と私〉という関係は、〈天皇と私〉という関係に置き換えられると伊藤は考察し 、三島の実人生を鑑みて、「三島はずっと戦時下の理念を引きずって生きてきた男であった」と述べ 、以下のように論じている。 天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった。 なぜなら、天皇は神であることによってのみ、ある全体を象徴することができ、私もまた、その天皇との関わりにおいて全体性に参与することができるからである。 もちろん、そのような全体性がもはや再現不可能な幻影にすぎないことを彼も充分承知している。 けれども、戦争中では、すべての人が死によって天皇に帰一することを願っていた、あの死のともいうべきものの中に生きることを願わずにはおれなかった。 戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである。 — 「三島由紀夫の問題作」(『最後のロマンティーク 三島由紀夫』) は、〈美〉が〈金閣〉、〈人生〉が〈女〉によって象徴され、主人公が「人生における異常者・異端者」の象徴となり、その構造が『』と相似性があることや、「〈金閣〉と〈私〉との関係」が「〈私〉の存在の根本的規定を示すメルクマール(指標)」であり、それがまた「〈世界〉と〈私〉との関係」と相関関係の中にあるという視点から『金閣寺』の論理を考察し 、美の象徴である金閣が、「現実の金閣」と「心象の金閣」とに分裂するのと同様、世界も〈私〉の「内界」と「外界」に分裂し、「それらが統一的にあらわれるためには何かの契機が必要なのである」と説明しながら、「世界が滅びる日」といった「危機的状況」こそが、〈私〉から疎外感を消し去り、「現実の金閣」が「心象の金閣」と重なり、美しく光り輝く時となると論考している。 そして金閣が放火される直前に、〈虚無がこの美の構造だつたのだ〉と記され、溝口が金閣の前で、米兵の女を踏んだ時の記憶を〈の煌めき〉と呼んでいることから田坂は、「美とは虚無であり、虚無が金閣の美の構造であり、美とはまた悪」でもあるとし 、「美・悪・虚無ののうえにそれを象徴して立つ建築」が金閣であり、その「美の世界」に完全に縛られてしまえば、「完全に自閉して、現実の人生とは完全に絶たれた世界の住人」となるが、〈私〉は〈美〉に惹かれながらも、その「呪縛」を脱し、〈人生〉へ行きたいという欲求も持ち、そこに「〈私〉の金閣にたいする」があると解説している。 また田坂は、主人公が人生(女)への〈関門〉をくぐろうとすると現れる金閣は、〈人生への渇望の虚しさ〉を知らせる告知者であり、その出現により、人生は〈塵のやうに飛び立つ〉てしまうのは、美の目から見た人生が「俗塵」にすぎず、金閣の出現の意味は、「〈美の永遠的な存在が真にわれわれの人生を拒み、生を毒する〉ものとしてあらわれること」であり、その毒は〈生そのものも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまふ〉という」構図を解説し 、結びの一句〈生きようと私は思つた〉の「生」については、作中で主人公・溝口が言う〈別誂への、私特製の、未開の生がはじまるだらう〉という「掴みどころがない」生の意味を、「ほとんど人生とは無縁」に思えるとし、「〈生きる〉としても、それは生なのか死なのかわかちがたいような〈生きる〉なのである」と考察している。 金閣=美を戦中の的におきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。 そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた「裏がえしの」の決意にほかならないことも明らかになるであろう。 こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、美の亡びとの誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している。 『』に遙かに呼応する的な作品である。 — 「主要作品解説 金閣寺」(『現代日本文学館42 三島由紀夫』) 関連小説 [ ] 三島の『金閣寺』に触発されたは、この6年後に同じ事件を題材とした長編小説『』(1962年)、的作品『金閣炎上』(1979年)を発表した。 なお、は、この生まれも育ちも対照的な三島と水上勉の両者の作品を比較して論じている。 また、放火の日本文学の系譜を描いた評論に『変身 放火論』()などがある。 エピソード [ ]• 三島は『金閣寺』の取材のため、ちかくの宿に泊まっていたが、同じ宿にはも偶然泊まっていたという。 三島は、「同宿の伴淳三郎氏と知り合ひになり、ときどき声をかけ合つて、愉快に暮した」と述べている。 10万部を突破した記念として担当編集者の発案で革装の特装本が作られた。 新潮社ではこれ以降、10万部を突破した記念に革装本を作るのが恒例となった。 映画化 [ ]• 『』() 1958年(昭和33年)8月封切。 モノクロ 1時間39分。 脚本:。 監督:。 音楽:• カラー 1時間49分。 脚本・監督:• 出演:(溝口)、(鶴川)、(柏木)、(有為子)、(溝口の母)、(老師)、(遊女・まり子)、(生花の師匠)、ほか• 日本未公開• 製作会社;フィルムリンク・インターナショナル、、• 監督:。 音楽:。 美術:• 出演:(溝口)、(柏木)、(遊女・まり子)、ほか• 舞台化 [ ]• 新派『金閣寺』• 1957年(昭和32年)5月5日 - 29日• 脚色・演出:。 出演:喜章、花柳武始、ほか• 『金閣寺』• 作曲:。 脚本:• 委属作品。 はドイツ語。 オペラという性格上、主人公の設定が原作の吃音障害から手の障害へと変更されている。 金閣寺はだが、全曲の終盤には黛自身の過去の代表作『』の男声合唱に用いられたの読経『首楞厳神咒』が引用されている。 本作では混声合唱である。 黛は上述の『炎上』でも音楽を担当している。 初演 1976年(昭和51年)6月23日、25日、27日• 演出:。 指揮:• 出演:、、ほか• 演奏会形式日本初演 1982年(昭和57年)10月18日• 舞台形式日本初演 1991年(平成3年)3月3日、8日• 没後20年追悼公演• 演出:。 指揮:• 出演:、、ほか• 1997年(平成9年)11月27日、29日• 指揮:。 演出:• 出演:、、ほか• 黛敏郎追悼公演。 1997年12月、で録画放送。 1999年(平成11年)9月3日、5日にで 、1999年(平成11年)12月5日、で再演。 2015年12月5日、6日• 指揮:。 演出:• 日本での上演に際し通例でカットされていた第4幕第3場がノーカットで上演されたが、代わりに柏木が尺八を吹いて溝口に渡すシーンはカットされた。 2018年3月21日、24日、27日、29日、4月3日 フランス国立ラン歌劇場・ 予定 4月13日、15日 フランス国立ラン歌劇場・ 2019年2月22日 - 24日 東京文化会館• 指揮:(フランス公演)、(日本公演)。 演出:。 制作:フランス国立ラン歌劇場、• 出演:Simon Bailey、Paul Kaufmann、、、ほか• 舞踊『金閣寺』• 1999年(平成11年)11月23日 東京グローブ座• 台本・振付・演出:。 出演:、、ほか• 舞台劇『金閣寺』• 演出:。 原作翻案・脚本:• 2011年(平成23年)1月29日 - 2月14日 KAAT• 主演:、、ほか• 2014年(平成26年)4月5日 - 4月19日• 脚本:。 主演:、、、、、、、、、(、、、、、)、、 ラジオドラマ化 [ ]• シネマ劇場『炎上』()• 1958年(昭和33年)7月27日 - 8月17日(全4回) 毎週日曜日 21時30分 - 22時• 脚色:• 出演:、、、、、、ほか• 現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』()• 1959年(昭和34年)6月27日 20時 - 22時• 脚色:。 演出:• 出演:、、、、、、、、ほか• おもな刊行本 [ ]• 『金閣寺』(、1956年10月30日)• カバー装幀:。 薄青色帯。 263頁• 検印紙なし。 見返し紙使用)4部あり。 これは10万部を超したときの、新潮社から三島へのプレゼント。 限定版『金閣寺』(、1956年10月30日) 限定200部(署名入)• 装幀:。 総革装。 三方金。 家紋金箔押し。 奥付および函の巻紙に限定番号記番。 見返しに署名。 263頁• 文庫版 『金閣寺』(、1960年9月15日。 改版1967年3月20日、1987年5月25日、2003年5月30日)• カバー装幀:。 白色帯。 解説:。 大活字本『金閣寺 上』(埼玉福祉会、1984年10月10日) 限定500部• 装幀:。 A5判。 第1章 - 第5章。 本文末に注解。 大活字本『金閣寺 下』(埼玉福祉会、1984年10月10日) 限定500部• 装幀:。 A5判。 第6章 - 第10章。 本文末に注解。 解説:。 佐伯彰一「人と文学」• 新装版『金閣寺』(新潮社、1990年9月10日)• 装幀:。 函(裏)に、による作品評あり。 英文版『The Temple of the Golden Pavilion』(訳:)(Penguin Books Ltd; New版、1987年7月。 他多数。 ) 全集収録 [ ]• 『三島由紀夫全集10巻(小説X)』(新潮社、1973年4月25日)• 装幀:。。 背革紙継ぎ装。 月報:「稽古場の三島由紀夫氏」。 《評伝・三島由紀夫 1》「二つの遺書(その1)」。 《同時代評から 1》「主として『金閣寺』をめぐって」• 収録作品:「金閣寺」「十九歳」「施餓鬼舟」「」「」「」「貴顕」「」「スタア」• 総革装。 緑革貼函。 段ボール夫婦外函。 A5変型版。 本文2色刷。 )が1,000部あり。 『決定版 三島由紀夫全集6巻 長編6』(新潮社、2001年5月10日)• 装幀:新潮社装幀室。 装画:。 四六判。 布クロス装。 箔押し2色。 月報: 「唯識、法相……心々ですさかい」。 「三島由紀夫のエラボレーション」。 [小説の創り方6]「奈落の階梯」• 収録作品:「金閣寺」「」「美徳のよろめき」「『金閣寺』創作ノート」 音声資料 [ ]• オペラ『金閣寺』(、1994年10月25日) - 舞台録音• ケース。 収録内容:金閣寺(作曲:。 脚本:。 指揮:。 演出:。 管弦楽:。 合唱:。 ステレオ・ドラマ『金閣寺(サウンド文学館20)』(パルナス、1995年12月20日)• CD1枚。 ケース・デザイン:• 収録内容:金閣寺(脚色:。 音楽:。 演出:。 プロデューサー:。 出演:、。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• これと同時に、豪華限定版200部も刊行された。 『金閣寺』の直筆生の一部の白黒コピーも、「」に展示されており、推敲や削除の苦心の跡が見える。 三島の原稿はあまり直しがないというがあったが、実際には清書の前に細かな手入れや推敲が重ねられている。 によれば、三島はの『』理論の「生きる接触感の喪失」「自閉性」についての感想を奥野に伝え、読んでいるうちに自分のことが書かれている心持がして「自分は精神分裂病じゃないかと恐ろしかった」と言っていたとされる。 は、有為子の「有為」は用語の「生滅変化する全てのもの」という意味であり、有為子と脱走兵の部分はの『祇園祭礼信仰記』(別名『金閣寺』)を思い出させると解説している。 出典 [ ]• 317-356)• 「川端康成」()• 48-61)• 73-109)• 92-97)• 410-413)• 90-103)• 『』(2011年2月5日放送)• 「三島由紀夫翻訳書目」(, pp. 695-729)• 「第五章『』の時代」(, pp. 117-160)• 『 三島由紀夫対談集』(、1970年10月)。 『小林秀雄対話集』(、2005年9月)191頁。 , pp. 277-297に所収• 651-)。 , pp. 87-140。 ノートの一部は, pp. 44-45に写真掲載• 233-260)• 佐藤秀明「『金閣寺』ノート解説」(, pp. 153-156)• , pp. 400-402に所収• 『亀は兎に追ひつくか』(、1956年10月)。 , pp. 241-247に所収• , pp. 115-132に所収• 「十八歳と三十四歳の肖像画」( 1959年5月号)。 , pp. 216-227に所収• , pp. 653-654に所収。 市川雷蔵『雷蔵、雷蔵を語る』(、1995年)に序文で再録• , pp. 190-192• 「三島由紀夫著『金閣寺』」(三田文学 1957年1月号)。 , p. , p. 123、, p. , p. , pp. 303-308に所収• 165-192)• 「同人雑記」(聲 1960年10月・第8号)。 , pp. 662-668に所収• 294-302)• 139-141)• 183-208)• 『増補 批判序説』(、1965年4月)、, pp. 28-35に所収• , pp. 96-101に所収• 川沿いのラプソディ. 2017年2月13日閲覧。 (SPICE、2017年6月23日) 参考文献 [ ]• 『決定版 三島由紀夫全集6巻 長編6』 、2001年5月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集29巻 評論4』 新潮社、2003年4月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集30巻 評論5』 新潮社、2003年5月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集31巻 評論6』 新潮社、2003年6月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7』 新潮社、2003年7月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』 新潮社、2003年8月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集39巻 対談1』 新潮社、2004年5月。 ; ; 山中剛史編 『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』 新潮社、2005年8月。 三島由紀夫 『金閣寺』(改版) 、2003年5月。 初版1960年9月。 ; ; 『大学院文学研究科論集』 68号 広島大学大学院文学研究科、33-51頁、2008年12月。 編 『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』 新潮社、1983年12月。 『最後のロマンティーク 三島由紀夫』 、2006年3月。 井上隆史; 佐藤秀明; 編 『三島由紀夫事典』 、2000年11月。 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹編 『三島由紀夫・金閣寺』 鼎書房〈三島由紀夫研究6〉、2008年7月。 『三島由紀夫伝説』 新潮文庫、2000年11月。 - ハードカバー版(新潮社)は1993年2月 、文庫版は一部省略された。 『金閣寺の燃やし方』 、2010年10月。 文庫版()は2014年2月• 佐藤秀明編 『三島由紀夫「金閣寺」作品論集』 クレス出版〈近代文学作品論集成17〉、2002年9月。 『増補 三島由紀夫論』 風濤社、1977年5月。 『三島由紀夫の世界』 、1968年12月。 『三島由紀夫論集成』 深夜叢書社、1998年12月。 ; 編 『三島由紀夫事典』 、1976年1月。 松本徹 『三島由紀夫を読み解く』 〈NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界〉、2010年7月。 『三島由紀夫の世界』 新潮社、1990年9月。 - 新潮文庫、1996年10月• 前田速夫編 『 11月臨時増刊 三島由紀夫没後三十年』 新潮社、2000年11月。 関連項目 [ ]•

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【三島由紀夫】「金閣寺」〜完全な変質者による完全なる変質者の書

金閣寺 小説

あらすじ 吃音の若い修行僧・溝口は美の観念から拒絶されているという感覚に悩まされていた。 太平洋戦争末期、溝口は永遠の美の象徴、金閣寺が戦火で焼失することを願っていたが果たされず、ついに、溝口は金閣に放火することを決意する。 第一章 舞鶴の東北に位置する 成生岬 なりゅうみさきの寺に生れた 溝口 みぞぐちは、幼時から、金閣寺の美しさを僧侶の父から聞かされていた。 溝口は日常のあらゆるものから金閣寺を想像した。 体が弱く、 吃音 きつおんということもあり、溝口は同級生にからかわれながら、中学生活を過ごしていた。 五月のある日、中学の先輩の舞鶴海軍機関学校の生徒が母校に遊びにきた。 溝口は人気のないことをたしかめてから、叙情的な美しさを放っている先輩の短剣の鞘にナイフで醜い切り傷をつけた。 十月、海軍の脱走兵が村に逃げ込み、憲兵が行方を捜索していた。 舞鶴海軍病院の看護婦、 有為子 ういこが脱走兵を金剛院にかくまっていたのだが、憲兵に詰問され、有為子は裏切り、脱走兵の隠れている場所を白状する。 脱走兵は有為子を拳銃で殺してから、自殺した。 有為子に肉体的な魅力を感じていた溝口は「裏切ることによって、とうとう彼女は、俺をも受け容れたんだ。 彼女は今こそ俺のものなんだ」と感じる。 第二章 父親の遺言に従って、溝口は金閣寺の徒弟になった。 太平洋戦争の最中、金閣寺は戦争の悲劇を栄養にして輝いていた。 溝口は金閣寺が空襲によって焼失して、心象の金閣寺と現実の金閣寺が融合することを夢見るようになり、金閣寺の美に耽溺した。 溝口は修行僧の鶴川と友達になった。 鶴川は吃音を侮辱したり、からかったりしないため、溝口は驚き、幸福を感じた。 五月のある日、溝口と鶴川は南禅寺に出かけた。 二人は天授庵の座敷に座っていた女性に見惚れていた。 軍服の陸軍士官が座敷に現れ、女は乳房を露にして、茶碗の中の鶯色の茶に乳を搾る。 陸軍士官は茶を飲み干した。 第三章 溝口が東舞鶴中学校の第一学年の夏休みに帰省したとき、溝口の母親は蚊帳の中に父と子が寝ているそばで、親戚の倉井と性行為をしていた。 父親は溝口の両眼を掌で覆った。 母は寺の権利を他人に譲り、田畑も処分して、借金を片付け、京都近郊の伯父の家に身を寄せることにした。 溝口には帰るべき家がなくなった。 母は息子が金閣寺の住職の跡継ぎになることを願っていた。 戦争が終わった。 金閣寺は無事に生き残り、心象から、そして、現実世界から超越して永遠の美を示していた。 「金閣と私との関係は絶たれたんだ」と溝口は絶望する。 その晩、老師は「南泉斬猫」の公案を講話の題材に選んだ。 夜中に溝口は鹿苑寺の裏手にある不動山の頂きに登る。 燈火管制が解かれ、京都市は灯りに満たされていた。 「戦争がおわって、この灯の下で、人々は邪悪な考えにかられている…(中略)…どうぞわが心の中の邪悪が、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、この目の前のおびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますように! それを包む私の心の暗黒が、この無数の灯を包む夜の暗黒と等しくなりますように!」と溝口は願う。 ある日、溝口は米兵に強制され、妊娠していた米兵の情婦の腹を踏みにじる。 米兵はお礼に二カートンのチェスタフィールドを差し出した。 第四章 昭和二十二年、溝口は 大谷 おおたに大学予科に進学した。 溝口は、 内翻足 ないほんそくの学生・ 柏木 かしわぎに注目する。 裏庭で弁当を食べていた柏木に溝口は声をかけた。 柏木は自分が童貞を脱却した経緯を語る。 第五章 柏木は女を口説く。 溝口は恐怖に駆られその場から逃げ出した。 「私の人生が柏木のようなものだったら、どうかお護り下さい。 私にはとても耐えきれそうもないから」と溝口は祈る。 溝口と柏木は女たちを連れて嵐山に遊山に出かけた。 溝口と柏木の下宿の娘はふたりきりになり、溝口は娘の裾に手を伸ばしたが、金閣寺が出現し、気後れする。 鶴川が事故で死んだ。 溝口は涙を流した。 鶴川に遠慮して、柏木と疎遠になり、溝口の孤独な生活が始まった。 第六章 大学予科二年の春休み、柏木が金閣寺を訪れる。 柏木は金閣寺で尺八を吹きたいと申し出る。 柏木は伯父の形見の尺八を溝口に譲る。 柏木は小曲「御所車」を巧みに吹き、溝口は柏木の意外な側面に驚く。 溝口が尺八の礼に何かしたいと柏木に申し出たところ、柏木は、金閣寺に咲いている 杜若 かきつばたと 木賊 とくさを取ってきてほしい、と依頼する。 言われたとおり、溝口は杜若と木賊を携え、柏木の下宿を訪ねた。 柏木は杜若と木賊を見事に活け、生花の腕前を示した。 柏木の生花の師匠は、溝口が南禅寺の天授庵の座敷で見た女だった。 柏木によって、溝口は女師匠と寝る機会を与えられるが、再び、金閣寺が出現して、溝口は性的不能に陥る。 帰り道、溝口は恍惚に浸っていたが、徐々に心が冷え、無力感が募り、金閣寺に憎しみを抱く。 第七章 女に二度挫折してから、溝口と女の間には金閣寺が出現した。 ある日、溝口は蜂の視点から菊の花を眺める。 「それにしても、悪は可能であろうか?」と溝口は自問する。 昭和二十四年の正月、溝口は老師が芸妓と歩いているところを目撃する。 溝口が尾行していたと勘違いした老師は溝口を叱咤する。 翌日以降、溝口は老師の無言の放任に耐えられなくなり、老師と歩いていた芸妓の写真を朝刊の中に忍ばせ、老師に届ける。 しかし、老師は写真を溝口の机の 抽斗 ひきだしの中に無言で返却して、事件の結着をつけてしまった。 溝口は学校をさぼるようになっていた。 十一月になり、老師は溝口を後継者にするつもりはないことを明言する。 溝口は出奔を決意して、柏木から三千円の借金をする。 溝口は由良川に向かい、日本海を眺め、「金閣を焼かなければならぬ」と決意する。 第八章 溝口は警官に保護され、金閣寺に連れ戻される。 溝口には借金を返済するつもりがないため、柏木は金閣寺を訪れ、老師が溝口の借金を肩代わりする。 柏木は、死の直前に鶴川から届いた手紙を溝口に渡す。 鶴川の死は事故ではなく自殺だった。 溝口と柏木の交流を非難しながら、実は、柏木と交際していた鶴川に対して、溝口は嫉妬を抱く。 第九章 老師から一学期分の授業料を渡され、溝口は北新地の遊郭に出かけた。 「大滝」という店で娼婦のまり子と交わり、溝口は快感に到達した。 数日後、溝口は拱北楼の床柱のわきにうずくまり、経を唱えている老師を見かける。 危うく感動に襲われかけながら、溝口は放火の決意を強固にする。 第十章 溝口はカルチモン(催眠鎮痛剤)と小刀を購入した。 昭和二十五年七月一日、福井県竜法寺の住職・桑井禅海和尚が金閣寺に宿泊していた。 溝口は「私の本心を見抜いて下さい」と言い、禅海和尚は「見抜く必要はない。 みんなお前の面上にあらわれておる」と返答する。 溝口は残る隈なく理解されたと感じる。 深夜、溝口は金閣寺に放火する。 溝口はカルモチンと小刀の存在も忘れて、火に包まれながら、 究竟頂 くきょうちょうで死ぬことを思いつく。 しかし、三階の扉には鍵がかかっていて、溝口は拒絶されていることを意識する。 溝口は金閣寺を飛び出して、左大文字山の頂上に駆けていく。 溝口は渦巻いている煙と火の粉を夜空に眺めながら、煙草に火を点けた。 「生きよう」と溝口は思った。 【感想】大宇宙と小宇宙の照応 三島由紀夫はギリシャの古典文化に憧れていた。 1951年12月、朝日新聞特別通信員として、横浜港からプレジデント・ウィルソン号で半年間の海外巡遊に出発した(なぜだろう、甲板のデッキチェアに寝転がりながら、日光浴をしている三島の姿を容易に想像することができる)。 アメリカ合衆国、ヨーロッパの各地を巡り、帰国後には旅行記『アポロの杯』を出版した。 アポロ(アポローン)はギリシャ神話に登場する太陽神のことだから、特に、ギリシャ訪問が三島由紀夫の芸術に影響を与えたことは間違いない。 ギリシャ古典文化の価値観は『潮騒』の発表に繋がった。 『ダフニスとクロエ』を下敷きにした純朴な恋愛物語。 商業的には成功した作品であるけれども、古典の近代化に失敗しているという酷評も免れてはいない。 他方では、ギリシャ古典文化の価値観は、『金閣寺』の構造にも影響を与えたのではないだろうか。 そして、三島の試みは『潮騒』より『金閣寺』において成功していた。 例えば、ギリシャ古典文化には大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)という概念が存在した。 宇宙は人間であり、人間は宇宙である。 全体は部分であり、部分は全体である。 要するに、全と個が照応しているという世界観。 三島由紀夫は小説の題材を求めて古典作品を渉猟していたから、当然、マクロコスモスとミクロコスモスの概念にも触れていたことだろう。 『金閣寺』は吃音の修行僧・溝口が金閣寺(永遠の美)に悩まされ、ついに、金閣寺を滅ぼすことを選択する物語だ。 三島由紀夫は極端に技巧的な作家だったから、『金閣寺』の中にはいろいろな仕掛けが施されている。 マクロコスモスとミクロコスモスもそのうちのひとつに過ぎない。 第七章では、溝口は蜂の視点から菊の花を眺めて、形態にひそんでいる流動的な生の力に感動する(このあたりはニーチェの影響が認められる)。 しかし、蜂の視点から、自分の視点に還ったときには永遠の金閣が出現し、金閣の視点から全ての事象を眺めることになり、金閣以外のありとあらゆるものが静止してしまって、無味乾燥な世界に変化する。 基本的には以上の構造がしつこいくらいに繰り返されている。 溝口が、柏木によって、下宿の娘に引き合わされ、生花の女師匠に引き合わされ、性交の直前に金閣が出現する。 要するに、菊の花のパターンが繰り返されているだけだ。 それから、有為子の存在にも触れておかなければならないだろう。 溝口は有為子を性的対象として眺めていた。 彼女は脱走兵を寺にかくまっていたが、憲兵の詰問に屈して男の居場所を白状する。 脱走兵が何を思い有為子を射殺したか語られていないが、彼女は死ぬ。 そして、有為子の幻影は生涯溝口にまとわりつく。 娼館「大滝」では、「有為子は留守だった」ことによって、溝口は安心する。 「私は思い出せぬ場所で、(多分有為子と、)もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦びをすでに味わっているような気がする」と感じる。 やっぱり、溝口の観念の世界では、有為子と個別の女性が照応している。 そもそも、金閣寺の構造が象徴的な役割を果たしている。 最後の場面では、金閣の三層構造が重要な役割を果たしている。 『金閣寺』は三島由紀夫の緻密な計算に支えられていて技術的水準が高い。 個人的に傑作と呼ぶことはためらわれるけれども、少なくとも『仮面の告白』より優れている。 三島由紀夫も『金閣寺』くらいになったらおもしろいのではないでしょうか。

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読書感想文例「金閣寺」を読んで(高校生)

金閣寺 小説

木造足利義満坐像 1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。 当時の金閣寺にはが7箇所に備え付けられていたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。 幸い人的被害はなかったが、の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である3代将軍の木像(当時)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。 鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。 その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり学生の林承賢(本名・林養賢、京都府出身、生まれ)が行方不明であることが判明しが行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中でのを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑でした。 なお、林は救命処置により一命を取り留めている。 動機 [ ] 逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。 しかし実際には自身が病弱であること、重度のであること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりもが幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。 そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された(詳細は後述)。 一例として、は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、は「寺のあり方、のあり方に対するにより美のである金閣を放火した」と分析した。 また、服役中にの明らかな進行が見られた(詳細は後述)ことから、 事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。 [ ] その後 [ ] 事件後、林の母親はによるのため京都に呼び出され(の僧侶であった父親はすでににより他界)、から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じたは実弟を呼び寄せて付き添わせた。 しかし、実弟の実家がある への帰途、の列車から馬堀付近のに飛び込んで自殺している。 林のを行ったのは後ににを設立し医長となるである。 、林はから7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核とが進行し、から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、(昭和31年)に26歳で病死した。 親子の墓は親戚のいた安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。 再建 [ ] 再建後の金閣舎利殿 現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後の1955年に再建されたものである。 金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能であった。 事件当時の寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。 また修復の際に創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が得られたことから、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られた。 事件をテーマにした作品 [ ] この事件を題材に、長編小説では『』や(その小説を原作とする映画『』もあり)、『』が書かれた。 水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている。 水上がに発表した『金閣炎上』は舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次となっている。 脚注 [ ] [].

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