須磨の秋。 秋の紅葉スポット 神戸市立 須磨離宮公園・植物園

秋の紅葉スポット 神戸市立 須磨離宮公園・植物園

須磨の秋

恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は 思ふ方より風や吹くらむ とうたひ給へるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。 「げにいかに思ふらむ、わが身一つにより、親はらから * 、かた時たち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひ合へる。 」 とおぼすに、いみじくて、 「いとかく思ひ沈むさまを、心細しと思ふらむ。 」 とおぼせば、昼は何くれとたはぶれごとうちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、いろいろの紙を継ぎつつ手習ひをし給ひ、めづらしきさまなる唐の綾などにさまざまの絵どもを書きすさび給へる、屏風のおもてどもなど、いとめでたく、見どころあり。 人々の語り聞こえし海山のありさまを、はるかにおぼしやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく書き集め給へり。 「このころの上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵つかうまつらせばや。 」 と心もとながり合へり。 なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う慣れつかうまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞつと候ひける。 前栽の花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出で給ひて、たたずみ給ふ御さまの、ゆゆしう清らなること、所がらはましてこの世のものと見え給はず。 白き綾のなよよかなる、紫苑色など奉りて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、「釈迦牟尼仏弟子。 」と名のりて、ゆるるかに読み給へる、また世に知らず聞こゆ。 沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。 ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも、心細げなるに、雁のつらねて鳴く声、楫の音にまがへるを、うちながめ給ひて、涙のこぼるるをかき払ひ給へる御手つき、黒きの御数珠に映え給へるは、ふるさとの女恋しき人々の心、みな慰みにけり。 心から常世を捨てて鳴く雁を 雲のよそにも思ひけるかな 前右近将監、 「常世出でて旅の空なるかりがねもつらにおくれぬほどぞ慰む友惑はしては、いかに侍らまし。 」 と言ふ。 親の常陸になりて下りしにも誘はれで、参れるなりけり。 下には思ひくだくべかめれど、誇りかにもてなして、つれなきさまにしありく。 月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御遊び恋しく、ところどころながめ給ふらむかしと思ひやり給ふにつけても、月の顔のみまもられ給ふ。 「二千里(の)外故人(の)心。 」 と誦じ給へる、例の涙もとどめられず。 入道の宮の、「霧や隔つる。 」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出で給ふに、よよと泣かれ給ふ。 「夜更け侍りぬ。 」 と聞こゆれど、なほ入り給はず。 憂しとのみひとへにものは思ほえで 左右にも濡るる袖かな 源氏物語「須磨の秋」の現代語訳 須磨では、ひとしおさまざまにもの思いをさそう秋風が吹いて、(源氏の住居は)波は少し離れているけれども、行平の中納言が、「関吹き越えるゆる」とよんだという浦波の打ち寄せる音が、毎夜、本当にすぐ近くに聞こえて、またとなくしみじみとするのは、このような所の秋なのである。 源氏のおそばには、とても(お仕えする)人が少なくて、みな寝静まっているのに、(源氏は)一人目を覚まして、枕から頭を上げて四方の激しい風の音をお聞きになっていると、波がすぐ枕もとに打ち寄せてくるような心地がして、涙がこぼれるのにも気づかないうちに、枕が浮くくらいになってしまった。 琴を少しかき鳴らしなさったが、我ながらたいへんものさびしく聞こえるので、 私が恋しさに堪えかねて泣く声に浦波がにているのは、私が恋しく思っている都の方から風が吹いてくるからであろうか。 とうたわれると、(寝ていた)人々は目を覚まして、すばらしいと思うにつけ(悲しさを)こらえきれず、むやみに起き出しては、鼻をそっとかんでいる。 「本当に、(このひとたちは)どう思っているのだろう、私一人のために、親兄弟、かた時も離れにくく、それぞれに応じて思っているだろう家から離れて、このようにさすらっている。 」 とお思いになると、かわいそうでたまらなくて、 「まったくこのように自分が思い沈んでいる様子を(見せたら)、心細いと思っているだろう。 」 とお思いになるので、昼は、あれこれと冗談をおっしゃって気を紛らわし、所在ないままに、さまざまな色の紙を継いでは歌をお書きになり、珍しい様子の唐の綾織物などにはさまざまな絵などを興にまかせてかいていらっしゃる、屏風の表の絵などは、実にすばらしく見事であった。 人々がお話し申し上げた海山の様子を、(遠く)はるかに想像していらっしゃっていたのを、目の当たりに御覧になって、想像もできないほどすばらしい磯の景色、このうえなく上手におかき集めなさっている。 「このごろ世間で名人といっているらしい千枝、常則などを召して、(君の墨書きの絵に)彩色させ申し上げたいものだ。 」 と歯がゆく思いあっている。 (源氏の)ご様子に、(人々は)世の辛さをも忘れて、おそば近くにお仕えすることがうれしくて、四、五人ほどがいつもお仕えしていた。 前栽の花が色とりどりに咲き乱れ、趣ある夕暮れに、海を見渡せる渡り廊下にお出になってたたずんでいらっしゃる(源氏の)ご様子が、不吉なほどに美しいことは、(須磨という)場所が場所だけにいっそうこの世のものとも見えなさらない。 白い綾の柔らかな下着に、紫苑色の指貫などをお召しになって、濃い縹(薄い藍色)の御直衣に、帯はしどけなく無造作におくつろぎになさっているご様子で、「釈迦牟尼仏弟子」と唱えて、ゆるやかに経文を読んでいらっしゃる(声は)これもまたこの世に例がないほどすばらしく聞こえる。 沖のほうを幾つもの舟が(舟歌を)大声で歌って漕いで行くのなども聞こえる。 (それらの舟が)かすかに、ただ小さい鳥が浮かんでいるように見られるのも、心細い感じがするうえに、雁が列を作って鳴く声が、楫の音によく似ているのを、もの思いにふけりながら眺めなさって、涙がこぼれるのをお払いなさるお手つきが、黒檀の御数珠に映えていらっしゃるその美しさには、都に残してきた女を恋しく思う人々の心も、みな慰められるのであった。 自分の気持ちから常世の国を捨てて鳴く雁を、雲のかなたのよそごと(関係のないもの)と思っておりましたよ。 前右近将監、 「常世の国を出て旅の空にあるかりがね(雁)も仲間に遅れないでいる間は心が慰められます。 友を見失っては、どんな(にか心細いこと)でしょう。 」 と言う。 (この人は、)親が常陸介になって下ったのにもついていかずに、(源氏のお供をしてこの地に)来ているのであった。 心の中では思い悩んでいるのであろうが、得意げにふるまって、平気な様子で日を過ごしている。 月がたいそう明るく昇ったので、今度は十五夜だったのだなぁと思いだしになって、(清涼殿の)殿上の間での管弦の御遊びが恋しく、都のあの方この方も(この月を)眺めていらっしゃるのであろうよとお思いになるにつけても、月の面ばかりをじっとお見つめになられる。 「二千里の外故人の心。 」 と朗唱なさると、(人々は)いつものように涙を止めることができない。 入道の宮(=藤壺の宮)が「霧や隔つる。 」とおっしゃったころが、言いようにもなく恋しく、あの折のことこの折のことと思い出しなさると、(こらえ切れずに)声をあげてお泣きになる。 「夜も更けました。 」 と(人々が)申し上げるが、やはり(寝所に)お入りにならない。 [いとど] ひとしお。 いっそう。 [げに] 本当に。 そのとおり。 [枕をそばだてて] 枕から頭を上げて。 [涙落つともおぼえぬに] 涙がこぼれるのにも気づかないうちに。 [枕浮くばかりになりにけり] 枕が浮くくらいになってしまった。 [すごう聞こゆれば] ものさびしく聞こえるので。 [弾きさし給ひて] 中途で弾くのをおやめになって。 [あいなう起きゐつつ] むやみに起き出しては。 [親はらから] 親兄弟。 [いみじくて] かわいそうでたまらなくて。 [作り絵つかうまつらせばや] 彩色させ申し上げたいものだ。 [心もとながり合へり] 歯がゆく思いあっている。 [海見やらるる廊] 海を見渡せる渡り廊下。 [ゆゆしう清らなる] 不吉なほどに美しい。 [楫の音にまがへるを] 楫の音によく似ているのを。 [初雁は恋しき人のつらなれや] あの初雁の列は、恋しく思う都の人の仲間なのか。 [下には思ひくだくべかめれど] 心の中では思い悩んでいるのであろうが。 [月の都ははるかなれども] 月の都は、はるかに遠いけれど。 答え:「別れて」にかかっている。 まとめ いかがでしたでしょうか。 今回は源氏物語でも有名な、「須磨の秋」についてご紹介しました。 その他については下記の関連記事をご覧下さい。

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須磨離宮公園 秋のローズフェスティバル2018

須磨の秋

本当に。 いかに=副詞、どんなに、どう。 らむ=現在推量の助動詞「らむ」の連体形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 「いかに」を受けて連体形となっている。 基本的に「らむ」は文末に来ると「現在推量・現在の原因推量」、文中に来ると「現在の伝聞・現在の婉曲」 はらから(同胞)=名詞、兄弟姉妹。 同じ腹から生まれて来たということで兄弟姉妹 「本当に、(この人たちは)どう思っているのだろう、私一人のために、親兄弟、かた時も離れにくく、 ほどにつけつつ思ふ らむ家を別れて、 かく惑ひ合へ る。 」と 思すに、 らむ=現在推量の助動詞「らむ」の連体形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 かく(斯く)=副詞、こう、このように る=存続の助動詞「り」の連体形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形 思す=サ行四段動詞「思す(おぼす)」の連体形。 「思ふ」の尊敬語。 動作の主体である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 どの敬語も、その敬語を実質的に使った人間からの敬意である。 それぞれに応じて大事に思っているだろう家を離れて、このように一緒にさまよっている。 」とお思いになると、 いみじく て、「いと かく思ひ沈むさまを、心細しと思ふ らむ。 」と 思せ ば、 いみじく=シク活用の形容詞「いみじ」の連用形、(いい意味でも悪い意味でも)程度がひどい、甚だしい、とても。 かく(斯く)=副詞、こう、このように らむ=現在推量の助動詞「らむ」の終止形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 基本的に「らむ」は文末に来ると「現在推量・現在の原因推量」、文中に来ると「現在の伝聞・現在の婉曲」 思せ=サ行四段動詞「思す(おぼす)」の已然形。 「思ふ」の尊敬語。 動作の主体である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 ひどくかわいそうで、「たいそうこのように(自分が)思い沈んでいるさまを、(この人たちは)心細いと思っているだろう。 」とお思いになるので、 昼は何くれとたはぶれごと うちのたまひ紛らはし、 つれづれなる ままに、いろいろの紙を継ぎ つつ手習ひをし 給ひ、 うちのたまひ=ハ行四段動詞「うち宣ふ(うちのたまふ)」の連用形。 「言ふ」の尊敬語。 「うち」は接頭語で、「少し、ちょっと」などの意味がある。 おっしゃる。 動作の主体である光源氏を敬っている。 作者からの敬意 つれづれなる=ナリ活用の形容動詞「徒然なり(つれづれなり)」の連体形、何もすることがなく手持ちぶさたなさま、退屈なさま ままに=~にまかせて、思うままに。 ~するとすぐに。 (原因・理由)…なので。 給ひ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の連用形、尊敬語。 動作の主体である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 昼はあれこれと冗談をおっしゃって気を紛らわし、退屈であるのにまかせて、さまざまな色の紙を継いでは歌をお書きになり、 めづらしきさま なる唐の綾などにさまざまの絵どもを書きすさび 給へ る、屏風のおもてどもなど、いと めでたく、見どころあり。 なる=断定の助動詞「なり」の連体形、接続は体言・連体形 給へ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の已然形、尊敬語。 動作の主体である葵の上を敬っている。 作者からの敬意。 る=存続の助動詞「り」の連体形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形 めでたく=ク活用の形容詞「めでたし」の連用形、みごとだ、すばらしい。 魅力的だ、心惹かれる 珍しい唐の綾織物などにさまざまな絵などを興にまかせて描いていらっしゃる、屏風の表の絵などは、とてもすばらしく、見どころがある。 人々の語り 聞こえ し海山のありさまを、はるかにおぼしやり しを、御目に近くては、 げに及ば ぬ 磯 いそ のたたずまひ、二なく書き集め 給へ り。 聞こえ=補助動詞ヤ行下二「聞こゆ」の連用形、謙譲語。 動作の対象である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 し=過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形。 もう一つの「し」も同じ。 げに(実に)=副詞、なるほど、実に、まことに。 本当に ぬ=打消の助動詞「ず」の連体形、接続は未然形 給へ=補助動詞ハ行四段「給ふ(たまふ)」の已然形、尊敬語。 動作の主体である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 り=存続の助動詞「り」の終止形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形 人々がお話し申し上げた海山の様子を、はるかに遠いものと想像していらっしゃったが、間近にご覧になっては、実に想像の及ばない磯の風景を、この上なく上手に描き集めなさっている。 「このころの上手に す める 千 ち 枝 えだ 、 常 つね 則 のり などを 召して、作り絵 つかうまつら せ ばや。 」と、 心もとながり合へ り。 す=サ変動詞「す」の終止形、する。 める=婉曲の助動詞「めり」の連体形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 視覚的なこと(見たこと)を根拠にする推定の助動詞である。 婉曲とは遠回しな表現。 「~のような」と言った感じで訳す。 召し=サ行四段動詞「召す(めす)」の連用形。 尊敬語。 お呼びになる。 取り寄せなさる。 「飲む・食ふ・乗る・着る」などの尊敬語であったり、いろいろな意味がある。 つかうまつら=ラ行四段動詞「仕うまつる(つかうまつる)」の未然形、「仕ふ・す・行う・作る」などの謙譲語。 お仕えする、お仕え申し上げる。 して差し上げる、~し申し上げる。 動作の対象である光源氏を敬っている。 光源氏にお仕えしている人たちからの敬意。 せ=使役の助動詞「す」の未然形、接続は未然形。 「す・さす・しむ」には、「使役と尊敬」の二つの意味があるが、直後に尊敬語が来ていない場合は必ず「使役」の意味である。 ばや=願望の終助詞、接続は未然形 心許ながり合へ=ハ行四段動詞「心もとながり合ふ」の已然形。 心許ながる(こころもとながる)=ラ行四段動詞。 じれったく思う、待ち遠しく思う り=存続の助動詞「り」の終止形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形 「このごろ世間で名人だとされている千枝・常則などをお呼びになって、(光源氏の描いた絵に)彩色を施させ申し上げたいものだ。 」と、じれったく思い合っている。 なつかしう めでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う慣れ つかうまつるをうれしきことにて、四、五人 ばかり ぞ つと 候ひ ける。 なつかしう=シク活用の形容詞「懐かし(なつかし)」の連用形が音便化したもの、親しみが感じられる、親しみやすい。 心惹かれる様子だ、慕わしい。 めでたき=ク活用の形容詞「めでたし」の連体形、みごとだ、すばらしい。 魅力的だ、心惹かれる つかうまつる=ラ行四段動詞「仕うまつる(つかうまつる)」の連体形、「仕ふ・す・行う・作る」などの謙譲語。 動作の対象である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 ばかり=副助詞、(程度)~ほど・ぐらい。 (限定)~だけ。 ぞ=強調の係助詞、結びは連体形となる。 係り結び。 つと=副詞、じっと、ずっと、つくづく。 さっと、急に。 候ひ=ハ行四段動詞「候ふ(さぶらふ)」の連用形、謙譲語。 お仕えする、(貴人の)お側にお仕えする。 動作の対象である光源氏を敬っている。 作者からの敬意。 ける=過去の助動詞「けり」の連体形、接続は連用形。 係助詞「ぞ」を受けて連体形となっている。 係り結び。 (光源氏の)親しみやすく立派なご様子に、世の悩みも忘れて、おそば近くにお仕えするのをうれしいこととして、四、五人ほどがいつもお仕えしていた。 続きはこちら -.

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須磨離宮公園 秋のローズフェスティバル2018

須磨の秋

(都にいる)あの方もこの方も(この月を)眺めていらっしゃるだろうよと思いなさるにつけても、月の面ばかりをじっと見つめていらっしゃる。 「二千里外故人心。 」と 誦 ず じ給へる、例の涙もとどめられず。 「 二 に 千 せん 里 り の 外 ほか 故 こ 人 じん の 心 こころ。 」と口ずさみなさると、(周りの人々は)いつものように涙を止めることができない。 入 にゅう 道 どう の 宮 みや の、「 霧 きり や 隔 へだ つる。 」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出で給ふに、よよと泣かれ給ふ。 入道の宮(=藤壺の宮)が、「霧が 隔 へだ てたのだろうか。 」とおっしゃったころが、言いようもなく恋しく、折々のことを思い出しなさると、おいおいとお泣きになる。 「夜 更 ふ け 侍 はべ りぬ。 」と聞こゆれど、なほ入り給はず。 「夜が更けました。 」と(人々が)申し上げるけれど、やはり(光源氏は寝所に)お入りにならない。 見るほどぞ しばし慰む めぐりあはむ 月の都は はるかなれども (月を)見ている間はしばらく心が慰められる。 再びめぐりあう月の都(=京の都)は、はるか遠いけれども。 (後半の意訳:再び京の都に帰ることができる日は、はるか遠いけれども。 源氏物語の序盤で登場した弘徽殿の女御の子供。 「 恩 おん 賜 し の 御 ぎょ 衣 い は今ここにあり。 」と誦じつつ入り給ひぬ。 「恩賜の御衣は今ここにあり。 」と口ずさみながら(寝所に)お入りになった。 」=菅原道真の詩の引用。 意訳:「主君からいただいた服は今でもここにございます。 」 御 おん 衣 ぞ はまことに身 放 はな たず、 傍 かたわ らに置き給へり。 (朱雀帝からいただいた)御衣は(道真の詩のとおり)本当に身から離さず、そばに置いていらっしゃる。 憂しとのみ ひとへにものは 思ほえで 左 ひだり 右 みぎ にも 濡るる袖かな (帝に対して)恨めしいとばかりひたすらには思われないで、(恨めしさと懐かしさで)左も右も(涙で)濡れる袖であるよ。

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