きょう へき じゅ。 儒教(じゅきょう)とは

観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)とは

きょう へき じゅ

大乗教経典の一つ。 観経 かんぎょう と略。 5世紀中葉,【きょう】良耶舎 きょうりょうやしゃ が漢訳。 インド,マガダ国のアジャセ王が父ビンビサーラを閉し悪逆をつくすときの母 いだいけ の苦しみを描き,仏陀は神通をもって十方の浄土を示し,衆生 しゅじょう が仏の浄土に生まれるためには, さんぷく (善行)と想を行うことを説く。 慧遠 えおん ,智【ぎ】 ちぎ , きちぞう に注疏 ちゅうしょ があり,の《 かんぎょうしじょうしょ 》によって,中国・日本の浄土教の発展に大きく影響した。 漢訳のほかウイグル訳の断片が存するのみで,インドで成立したか否か疑問がある。 日本では法然 ほうねん 以後,浄土三部経の一つとして重視された。 『無量寿経』『阿弥陀 あみだ 経』とともに「浄土三部経」の一つに数えられ、『観経 かんぎょう 』と略称する。 中国で424~442年ころ 良耶舎 きょうりょうやしゃ (カーラヤシャス)によって翻訳されたというが、サンスクリット原典がなく、チベット訳もなく、漢訳のなかでも他に異訳が存在しない。 ただウイグル語訳断簡が現存しているが、これは漢訳から重訳されたものである。 これらの点から、『観経』の成立については、インドで編纂 へんさん されたとみることは困難である。 現在、中央アジアでこの経典の大綱が成立し、中国的要素を加味して漢訳されたとみる説、あるいは中央アジアで成立した観法 かんぼう を素材として中国で撰述 せんじゅつ されたとみる説が行われている。 本経の内容は、インドの王舎城 おうしゃじょう (ラージャグリハ)において太子阿闍世 あじゃせ (アジャータシャトル)が父王頻婆娑羅 びんばしゃら (ビンビサーラ)と母后韋提希 いだいけ (バイデーヒー)を殺害しようとした悲劇を機縁として、釈尊 しゃくそん が韋提希の請いに応じて、阿弥陀仏と西方極楽浄土 さいほうごくらくじょうど を観想するための13種の観法 かんぼう を説き、さらにその浄土に生まれる9種のあり方(九品往生 くほんおうじょう )を3種の観法の形で示し、あわせて16の観法によって浄土往生信仰を高揚したものである。 中国、日本では、本経の所説に基づいて浄土変相 へんそう 図も多く描かれ、それらは一般に観経変 かんぎょうへん または観経曼荼羅 まんだら とよばれている。 [藤田宏達] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説 【来迎図】より …また絵画として表現されるもののほかに彫像によって表現される来迎像もある。 来迎図の教理的根拠は《無量寿経》所説の阿弥陀仏の四十八願中の第十九願において,大衆を救済するために臨終まぎわの往生者のもとに阿弥陀仏が諸尊を従えて来迎するという誓約にもとづくものであるが,さらに《観無量寿経》ではこれをいっそう発展させ,大衆の機根に応じて上品上生より下品下生にいたる九品 9通り の往生すなわち来迎のあり方を説いている。 このような経意にもとづいて表現されたのが阿弥陀来迎図であり,まず《観無量寿経》にもとづいて描かれた〈観無量寿経変〉 略して観経変と言う の中に表された。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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観無量寿経

きょう へき じゅ

浄土教の根本聖典。 『観無量寿経』『阿弥陀 あみだ 経』とともに「浄土三部経」の一つに数えられる。 『大無量寿経』ともよび、『大経』と略称する。 サンスクリット原典は「スカーバティー・ビューハ」Sukh vat -vy ha(極楽 ごくらく の荘厳 しょうごん )といい、およそ100年ごろ北西インドで編纂 へんさん されたと推定される。 『無量寿経』はこれを三国時代の魏 ぎ の康僧鎧 こうそうがい が漢訳したものと伝えるが、しかし実際は東晋 とうしん の仏駄跋陀羅 ぶっだばっだら (覚賢 かくけん )と南朝の宋 そう の宝雲 ほううん が421年に共訳したものとみられる。 漢訳としてはこのほかに4種の異訳があるが、中国、日本では本訳の『無量寿経』がもっともよく用いられている。 漢訳のほかにチベット訳があり、またコータン語訳、ウイグル語訳、西夏 せいか 語訳の断片もある。 本経の内容は、過去久遠 くおん の昔、法蔵菩薩 ほうぞうぼさつ が無上なる悟りを得ようと志し、生きとし生ける者を救済するための本願として四十八願をたて、途方もなく長い間修行を重ねたのち本願を完成して、いまから十劫 じっこう というはるか以前に阿弥陀仏(無量寿仏)となり、現に西方の極楽(安楽・安養 あんにょう )という世界(浄土)に住して説法していることを述べ、ついで極楽浄土の優れたしつらい(荘厳)を詳しく描写し、この極楽への往生を願う人々を上・中・下の3種類(三輩)に分け、念仏を中心とした種々の実践法によっていずれも浄土に往生しうることを説き明かしている。 全体として浄土教信仰をもっとも組織的に説いたもので、この経典によって浄土思想が確立した。 とくに日本では浄土教諸宗派の所依の経典とみなされたため広く流布し、本経の注釈書、解説書等も非常に多い。 [藤田宏達] 『藤田宏達訳『梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』(1975・法蔵館)』 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説.

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観無量寿経

きょう へき じゅ

大乗教経典の一つ。 観経 かんぎょう と略。 5世紀中葉,【きょう】良耶舎 きょうりょうやしゃ が漢訳。 インド,マガダ国のアジャセ王が父ビンビサーラを閉し悪逆をつくすときの母 いだいけ の苦しみを描き,仏陀は神通をもって十方の浄土を示し,衆生 しゅじょう が仏の浄土に生まれるためには, さんぷく (善行)と想を行うことを説く。 慧遠 えおん ,智【ぎ】 ちぎ , きちぞう に注疏 ちゅうしょ があり,の《 かんぎょうしじょうしょ 》によって,中国・日本の浄土教の発展に大きく影響した。 漢訳のほかウイグル訳の断片が存するのみで,インドで成立したか否か疑問がある。 日本では法然 ほうねん 以後,浄土三部経の一つとして重視された。 『無量寿経』『阿弥陀 あみだ 経』とともに「浄土三部経」の一つに数えられ、『観経 かんぎょう 』と略称する。 中国で424~442年ころ 良耶舎 きょうりょうやしゃ (カーラヤシャス)によって翻訳されたというが、サンスクリット原典がなく、チベット訳もなく、漢訳のなかでも他に異訳が存在しない。 ただウイグル語訳断簡が現存しているが、これは漢訳から重訳されたものである。 これらの点から、『観経』の成立については、インドで編纂 へんさん されたとみることは困難である。 現在、中央アジアでこの経典の大綱が成立し、中国的要素を加味して漢訳されたとみる説、あるいは中央アジアで成立した観法 かんぼう を素材として中国で撰述 せんじゅつ されたとみる説が行われている。 本経の内容は、インドの王舎城 おうしゃじょう (ラージャグリハ)において太子阿闍世 あじゃせ (アジャータシャトル)が父王頻婆娑羅 びんばしゃら (ビンビサーラ)と母后韋提希 いだいけ (バイデーヒー)を殺害しようとした悲劇を機縁として、釈尊 しゃくそん が韋提希の請いに応じて、阿弥陀仏と西方極楽浄土 さいほうごくらくじょうど を観想するための13種の観法 かんぼう を説き、さらにその浄土に生まれる9種のあり方(九品往生 くほんおうじょう )を3種の観法の形で示し、あわせて16の観法によって浄土往生信仰を高揚したものである。 中国、日本では、本経の所説に基づいて浄土変相 へんそう 図も多く描かれ、それらは一般に観経変 かんぎょうへん または観経曼荼羅 まんだら とよばれている。 [藤田宏達] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説 【来迎図】より …また絵画として表現されるもののほかに彫像によって表現される来迎像もある。 来迎図の教理的根拠は《無量寿経》所説の阿弥陀仏の四十八願中の第十九願において,大衆を救済するために臨終まぎわの往生者のもとに阿弥陀仏が諸尊を従えて来迎するという誓約にもとづくものであるが,さらに《観無量寿経》ではこれをいっそう発展させ,大衆の機根に応じて上品上生より下品下生にいたる九品 9通り の往生すなわち来迎のあり方を説いている。 このような経意にもとづいて表現されたのが阿弥陀来迎図であり,まず《観無量寿経》にもとづいて描かれた〈観無量寿経変〉 略して観経変と言う の中に表された。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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