佐世保 の 人 いま せん か 126。 居酒屋タフ

らいふのまきたろう雑文ノート: 音記帳 アーカイブ

佐世保 の 人 いま せん か 126

佐世保事件とは、2004年の6月1日に長崎県で起きた小学生による殺害事件です。 現場となったのは佐世保にある小学校で、当時11歳の女児が同級生の女児をカッターナイフで切りつけ殺害するという猟奇的な殺人事件でした。 加害者の年齢があまりにも幼く、刑事責任を問う年齢の範囲外でもあったこの事件は世界中に衝撃と波紋を広げました。 また事件の詳細から、背景にクラスの学級崩壊があった事や、人間関係がこじれていったネットトラブル、発達障害についてなど、当時の子供たちが直面していた要因も注目されました。 加害者女児はホラー小説や残虐性のある作品にも影響を受けており、佐世保事件の後にはテレビドラマの放送自粛や、R15指定作品の発売延期も起きる事態となりました。 佐世保事件とは2004年6月1日に長崎県佐世保市の佐世保市立大久保小学校で起きた殺人事件です。 殺害されたのは当時小学6年生の御手洗怜美で、同級生の辻菜摘から呼び出されカッターナイフで喉と左手を切られ死亡しました。 辻菜摘はまだ小学生でありながらも被害者女子の傷は深く、左手の甲は骨が見えていたそうです。 事件当時の大久保小学校校長は出崎睿子で、文部科学省はこの事件を長崎県佐世保市女子児童殺害事件という呼称で取り扱っています。 加害者の辻菜摘は11歳という年齢であった事から、法律上の刑事責任を問われない事にもなる為、事件全体の行方も大変注目されていました。 そして今現在もこの悲惨な事件を風化させないよう、大久保小学校の校長室には御手洗怜美の使用していた机といすが置かれています。 佐世保事件が発生したのは2004年の6月1日の給食の時間に差し掛かった時でした。 加害者の辻菜摘が被害者となった御手洗怜美を学習ルームに呼び出し、辻菜摘はカーテンを閉めて椅子に座らせ、後ろから手で目隠しをして座っている状態の御手洗怜美をカッターナイフで切りつけました。 御手洗怜美の首の傷口は深さ10cmで死因は出血多量でした。 また辻菜摘は殺害した後に担任を呼びに行き、御手洗怜美の為に助けを求めました。 しかしその後の供述によれば辻菜摘は御手洗怜美を殺害してから15分ほど様子を伺い続け、最終的に御手洗怜美が死亡したかを確認したようです。 傷の深さは、辻菜摘がためらう事も無く殺意を込め、力いっぱい切りつけた事を表しています。 辻菜摘の供述によると、動機となったのは佐世保事件の起きる前月に御手洗怜美が辻菜摘を背中におぶった際に「重い」と言った事で辻菜摘は怒りの感情を持ったようです。 実際に辻菜摘は太っていたわけでは無かったようで、真意は不明ですがそこから2人の仲はよくない方向へこじれていく事になったようです。 この動機についても色々な見方をしたものがあります。 客観的な推測から、辻菜摘の父親が障害を患い辻菜摘も家族に対しストレスがあった説に、御手洗怜美の父親へ嫉妬の感情を持っていたという説も存在するようです。 辻菜摘の殺意は最初、父親の御手洗恭二に向けられていたというネット記事などもちらほら出されました。 いづれも定かではありません。 辻菜摘の11歳という年齢は幼く、真実を引き出すことも現実問題難しいのかもしれません。 佐世保小6女児殺害事件は全世界に反響を及ぼしていました。 日本での小学生が起こした凶悪犯罪は、以前からもしばしばありました。 しかし学校内部で起きる暴力行為などは年々減少している傾向であったため、再び少年法の改正についてや、児童保護という観点で対策の見直しが重要視されることとなります。 またこの佐世保小6女児殺害事件では、小学生ですでにインターネットのウェブサイトを使用して、コミュニケーションをとる手段が浸透しているという事も世間に強く印象付けました。 また、加害者の辻菜摘が自身で手に入れたR15指定の映画作品を度々見ていたという事から、DVD「バトル・ロワイアルII・特別編~REVENGE」の発売も延期されました。 佐世保事件のきっかけは、事件の起こる前月の5月に御手洗怜美が辻菜摘を背中におぶった際に「重い」と言い、辻菜摘が腹を立てた事でした。 そしてその後、御手洗怜美はインターネットの自身のウェブサイトにて、辻菜摘の事を「言い方がぶりっ子だ」と書き込みました。 辻菜摘本人は元々仲の良かった御手洗怜美のパスワードを知っていた為に、御手洗怜美のウェブサイト管理画面より、不正にパスワードを使用して書き込みを削除します。 御手洗怜美は削除された内容を再び書き込み、この書き換えについて「荒らしにアッタンダ。 マァ大体ダレがやってるかワかるケド」と辻菜摘へあてた内容の書き込みをします。 辻菜摘はその後も御手洗怜美のアバターを削除しカボチャのアイコンに差し替えをおこなったりと、怒りは増幅しネットトラブルにも発展していきました。 小学6年生になると、成績が悪くなった事や、帰宅が遅くなる際に田舎道を1人で歩くのは危険だという理由で、親から部活を辞めされられました。 その際に辻菜摘と両親が争うという事は特に無かったようです。 辻菜摘は小説が好きで、中でも「ボイス」や「バトルロワイヤル」などのホラーや殺人など残虐性の強い作品を特に気に入っていたようです。 ちなみに当時の辻菜摘の将来の夢は小説家や漫画家と語っていました。 辻菜摘は事件を起こした前日に、テレビドラマの「ホステス探偵危機一髪6」を見ており、ストーリーにはカッターで殺害するというシーンも含まれています。 その後の供述で、このシーンから殺害方法のヒントを得た事を話したそうです。 娘が事件を起こす2、3日前、私は「チソン、愛してるよ」という本の広告を見つけました。 交通事故で顔と身体にひどい火傷(やけど)と障害を負った韓国の女子大生が、最初は絶望していたけれども、やがてありのままの自分を見つめ、全身の障害と戦いながら前向きに生きるようになるまでを書いた手記だということでした。 私が娘に内容を説明して「こんな本があるよ。 すごいね。 読んでみる?」と尋ねると、娘は興味を持った様子で、「読んでみたい」と言いましたので、私はすぐにこの本を注文しました。 事件の前夜、私が娘に「今日、本を発送したそうだよ。 2、3日で届くよ。 楽しみだね」と言いましたら、娘はにこにこして嬉(うれ)しそうに「うん」とうなずいていました。 しかし、その翌日に、娘は事件を起こしてしまいました。 引用元: 通常14歳以下は刑事責任を問われませんが、今回の佐世保事件では長崎地方裁判所佐世保市局が加害者の辻菜摘について、精神鑑定を行っています。 精神鑑定は84日に渡りました。 鑑定結果は人間関係を築く能力に遅れが見られる、ある種の発達障害の可能性を指摘しつつ、特定の精神疾患の確定診断には至っていないとなっています。 世間やネット上ではカッターナイフで斬殺するという強烈な犯行手口からも、加害者の辻菜摘はサイコパスではないかという声も多く見られていました。 また長崎佐世保家裁支部の最終審判が開かれた際に、家庭調査官のうちの1人の女性が涙ながらに「私はまだあなたの心が見えない」と反省や謝罪を促すような口調で詰め寄ったが、辻菜摘は困惑した表情を浮かべたまま一切謝罪に応じる事は無かったそうです。 アスペルガー症候群とは発達障害の1つで、生まれつきの脳機能と発達のアンバランスさと、環境や人との関わりなどにより生じたミスマッチで、社会生活の困難さが起きた時に表れる症状です。 厚生労働省はアスペルガー症候群を広汎性発達障害(広い意味での自閉症の1つのタイプ)と定義しています。 言葉の発達や知的発達の遅れは無いとされています。 アスペルガー症候群は記憶力が優れていて勉強もよくできるという場合もあります。 しかし自分の中の規律を乱されると混乱をする性質から、英文法の構造、数学の構造の原理が理解出来ない、イメージで物事を捉えられないという兆候もよく見られます。 そしてマイルールによる異常なこだわりも特徴的です。 またアスペルガー症候群は約4000人に1人の確率で発生すると言われています。 アスペルガー症候群の1つ目の症状は、人間関係において困難が生じるような社会性の障害がみられる症状です。 対人関係において相手の気持ちを汲み取る事や、その場の「空気を読む」といった事が苦手な所が特徴的です。 自分の発した言葉や取る行動で相手がどんなふうに感じるかを想像するのも苦手の為、ストレートで率直な発言もします。 その為、アスペルガー症候群の人は「無神経な人」や「常識が無い人」というふうに誤解されてしまう事もあるようです。 本人には悪意が無く、なぜ周囲の人たちから自分はそんな風に言われるのかも理解できずに孤独感や疎外感を抱く人も多いようです。 突拍子の無い一言で場の空気を凍らせてしまうのもよくある事のようです。 佐世保事件の起こった日、父親の御手洗恭二は慌ただしい中で娘の司法解剖とマスコミの前での会見時刻をほぼ同時にして、新聞社支局長として記者が必要であろう写真を用意しました。 1人で対応を引き受けて家族を守ろうとだけ考えていたそうです。 10年後の講演の中で兄は当時の父はうつろな様子で「この人自殺するかもしれない」と思ったと語っています。 また中学3年生だった兄は事件が起きた際に突然校長から相談室へと呼ばれて、ネットニュースのコピーを見せられ、妹の事を聞かされました。 ショックでありながらも涙が出ることはなく、2時間ほど教員たちと座っていたそうです。 その後、深夜になって司法解剖の済んだ妹の遺体と対面した時にはやっと涙があふれたそうです。 佐世保事件から10年が経ち、当時の御手洗恭二の部下である川名壮史が執筆した「謝るなら、いつでもおいで」を出版しました。 なお、この本のタイトルは当時中学3年生だった御手洗怜美の兄が、辻菜摘に言いたかったという言葉を使用しているそうです。 本の後半部分には、御手洗恭二と兄へのインタビューも掲載されています。 著者の川中壮史は長野県出身の新聞記者で、早稲田大学を卒業後に毎日新聞へ入社しました。 御手洗怜美が小さい時から家族ぐるみの付き合いをしていた1人で、10年に渡って佐世保事件の取材を続けてきました。 そしてこの本の中では佐世保事件当時の当事者への社会の反応について振り返ってまとめ、少年法の在り方についてなども綴られています。 また辻菜摘のネバダたんは確かに可愛いので困るという川名壮史の心境も語られました。 その後の辻菜摘は法務省関係者と養子縁組を行っていて、結婚もしているようです。 また完治の難しい病気にかかり闘病生活を送っているなども囁かれています。 実際はどうしているのかはっきりとは公開されていませんが、年齢的に結婚して子供がいるというのも十分あり得る事です。 どのような結婚相手なのか、結婚相手に事件のことを明かしたのかも不明です。 辻菜摘は現在、更生して社会に復帰を果たし、結婚して幸せになっているかもしれません。 しかし一方の被害者遺族は複雑な心境のままです。 活動を通しながら辻菜摘に生きていてほしいと前提したうえで、辻菜摘の現在の心境を知りたい、当時の自身の行動を反省した上で今でも謝罪をして欲しいと遺族たちは希望しています。

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てるてる家族とは

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石木ダム建設阻止闘争の経過 山下弘文• 「この旗は、権力を国民大衆が取り囲んでいる。 日の丸は権力が国民大衆を囲みこんでいる。 やがて、白丸はだんだんと小さくなるだろう。 」 1960年、あの安保闘争の激動期をはさみ、建設に反対し、に、晩年の13年間、国家権力を相手に戦いをいどんだがかかげた室原王国旗である。 この「赤地に白丸」の旗が、いま、石木ダム建設予定地の川原郷入口にへんぽんとひるがえっている。 ここは、東彼杵郡川春郷である。 世帯数45戸のうち37戸が湖底に沈むこの地区の入り口に、直径約30センチ、高さ7、8メートルの杉丸太4本を組んだ団結の塔の上に、この王国旗がひるがえっている。 路上には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三ザルの大きな絵がかかげられ、石木ダム建設絶対反対の看板が打ちつけられている。 1982年4月9日、長崎県は、ダム建設予定地測量のため、による強制測量を実施したのである。 1959年1月8日、松原、下筌ダム建設に際して、伝家の宝刀として抜かれて以来、実に23年ぶりの暴挙であった。 この日から、反対同盟の連日にわたる苦闘が始まったのである。 以下、これまでの闘いの経過を報告しよう。 そこに「ふるさと」があるから 「先祖は、タビも履かず、はだしで働いて求めた土地です。 この土地ば、わたしたちの代で水の底に沈めることはできまっせん。 ご先祖様に申し訳がたたんですたい。 この土地は最高です。 この土地ば離りゅうちゃ思いまっせん」 「わたしゃ、土地は持ちまっせんじょん、土地ば離りゅうちゃ思いまっせん。 こやん隣人愛のすばらしかとかぁ-、ほかになかって思うとります。 日本一のこん部落ば、そのまま守りたかです。 この土地に骨ば埋みゅうて思うとります。 」 1980年3月14日、県、町当局の悪らつな懐柔策、切り崩しの前に、次々に条件派に転身していった「石木ダム建設絶対反対同盟」の幹部に見切りをつけ、部落全体が完全に水没する川原郷の人々が、新たに「ダム建設絶対反対」をスローガンに、反対同盟の再結集をはかった時のおばあちゃん達の発言である。 国鉄川棚駅から車で約10分、川棚川をさかのぼった支流石木川の上流に川原、木場、岩屋の三部落が、ひっそりとしたたたずまいを見せている。 豊かな田園と山林に囲まれ、ぼう大なホタルが飛びかう清流石木川、背後には県立公園多良岳がせまり、がそびえている静かな山村である。 ダム建設によって、川原橋と勘蔵橋の二つの石橋は水没する。 また、「199段の階段を一夜のうちに鬼が築いた」というがある。 毎年、秋分の前夜、ここで部落の青年達による奉納演芸会=献燈祭が催される。 自然を取り入れたその舞台装置と共に、力のはいった演技は、遠く波佐見、東彼杵、嬉野、佐世保の人々の人気を呼んでいる。 「暮らしは貧しかった。 それでも私たちはふるさとを守ってきました。 新たな「石木ダム建設絶対反対同盟」の中心になったのは、79年10月段階から川原部落の青年層が自発的に結成し、事実上、反対運動の行動をになっている「ダムからふるさとを守る会」の若者たちである。 「ふるさとを守る会」に結集しているのは、代表格である電気工事を仕事としている岩下和雄さん(35歳)を中心に、東彼地区労傘下の川棚町職、動労、東芝セラミックスなどの若手組合員が多い。 最近、長崎県内でもダム建設に対する反対の声や住民団体が生まれてきつつある。 その代表的なものが石木ダムであり、この他、大村市の「萱瀬ダム嵩揚絶対反対期成同盟」、さらに小長井町の轟ダム建設に反対する漁協の運動などがある。 水不足、水資源開発を大義名分に、県内でも1985年までに、実に77ヶ所のダム建設が計画、予定されているといわれている。 列島改造案によると、全国1千百ヶ所以上の計画がある。 ダム建設にあたっては、水没する地域の人々の悲劇があると同時に、建設後の上・下流域住民に対する恐るべき「ダム災害」の危険や過疎化がおそいかかってくる。 ダム建設予定地の住民が、反対運動に立ち上がるのは当然といえよう。 次に、ダム計画の概要と前期の反対運動についてみることにしよう。 石木ダム計画の概要と反対運動 石木ダムは、川棚川水系石木川上流の川原地区に、として計画されたものである。 ダムサイト予定地は、川原中心部から北東へ約3. 5キロメートル、ダムは重力式コンクリートダムであり、堤高56. 5メートル、堤頂長473メートル、集水面積9. 3平方メートル、総貯水量674万立方メートル、有効貯水量644万立方メートルとなっている。 取水総量は1日6万9千トンであり、そのうち、佐世保市に6万トンの水を送る計画であり、このうち水源がない佐世保針尾工業団地へ2万2千トン、上水道として3万8千トン。 地元川棚町には日量7千トン、かんがい用水として3千トンの取水が計画されている。 総工費200億円という。 このダム建設によって、ダムサイトから上流の集落である川原45戸中37戸、岩屋30戸中22戸、木場48戸中5戸、計64戸が完全に水没する。 また、水田32. 1ヘクタール、畑10. 5ヘクタール、山林11. 8ヘクタールも水没、小規模のダムとしては、その犠牲は大きいといわざるを得ない。 石木ダム建設計画の裏には「ふるさとを守る会」が、いみじくも指摘しているように1972年から78年までの期間に県が造成した126万9千平方メートルにおよぶ針尾工業団地造成があったのである。 工業団地への水の供給、工業団地ができれば人口が増え、水の需要が増えるであろうということを見込んだ、いってみれば地元住民や川棚町発展のために計画されたものではないのである。 長崎県経済部工業立地課はいう「針尾団地はナガサキ・テクノポリス(高度技術集積都市)計画の柱。 水源はとりあえず地下水に頼るとしても、最終的には石木ダムしかない。 ダムとテクノポリスは共同運命体」 佐世保市もまた「七つの貯水池が満水になっても、人口(55年度23万5千人)の2ヶ月しかない。 安定供給にはいまの2倍、4ヶ月分の貯水が必要」という。 これに対し、反対同盟の古老川原志郎さん(60歳)は「都市にだけ都合のよい論理。 開発による犠牲の押しつけ」といい「佐世保の水は、佐世保域内で確保するのが筋。 自然の大和水源を守ってきたからこそ、石木川の流れがある。 われわれにも生きる権利があり、土地を子孫に残す責任がある。 佐世保には川棚川の水を送っており、貸しはあっても、借りはない」と反論。 「水が足りないのではなく、行政は新規水源探しに真剣さがない」と指摘している。 静郷川原地区に、ダム建設が持ちあがったのは、いまから20年前の1962年であった。 この年、県は町と地元に無断でダム建設を目的に現地調査、測量を行ったが、地元住民は直ちに町に抗議、町もこれを受けて県に抗議し、調査は中止された。 それから10年近くたった1971年12月、県は地元に石木ダム建設のための予備調査を依頼、翌72年7月29日、が交換され、ダム建設予定地内十数のヶ所ボーリング調査、横杭調査、地震探査などが実施された。 この時の覚書きには、県と町の二通あり、県と地元の覚書き第4条は、県が調査の結果、建設の必要が生じたときは、改めて三部落と協議の上、書面による同意を受けた後、着手するものとする。 とあり、町との覚書きの第1条は、石木川の河川調査に関して三部落長崎県土木部長との間に取り交わされた覚書きは、あくまで地元民の理解の上に作業が進められることを基調にするものであるから、若し長崎県が覚書きの精神に反し独断専行或いは強制執行等の行為に出た場合は、川棚町竹村寅次郎町長(当時)は総力を挙げて反対し作業を阻止する行動を約束する。 とあった。 この覚え書きが、今回の県の強制測量にあたって大きな問題になったのは当然のことであった。 県は、この覚書きについて、言を左右にして認めようとしなかったのである。 この時の調査に対して、反対同盟は「何故あの時の予備調査を認めたのか・・・」と、くやんだが。 その時の調査結果は1974年8月に、久保知事名で「」という文書によって、「一部に脆弱部がみられ、透水性についても一部に大きい陶酔箇所等が見受けられるが、ダム建設は可能」と報告され、11月には地元に対する初めての説明会が開催されるなど、静かだった石木地区はダム問題でゆれだした。 同年12月、地元住民は町長の仲介により、三部落総代が県知事にダム建設反対の陳情を行なった。 1975年10月、地元三部落は「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成、川崎勝氏を委員長に選出、県へ抗議、計画の白紙撤回を求めた。 この年地元の労働団体である東彼地区労は定期大会の中で、反対闘争の支援を決議したが、地元反対同盟の受け入れ体制がなく、宙に浮いた状態となった。 77年の暮れになると県職員、町助役、職員などが積極的に戸別訪問を開始したが、これに対し反対同盟は「県職員面会拒否」で対処していった。 78年8月、川棚町は臨時町議会を開催、町議会水総合対策委員会の報告を了承、「ダム建設の必要性を認める」との議会決議を行なった。 この決議に力を得た県、町当局は、従来にもましての戸別訪問を行なったが、川原地区の青年部を中心とする反対同盟は「見ざる、言わざる、聞かざる」というユニークな戦術をあみだし、対処していった。 79年中頃になると、久保知事を先頭に地元に対する説得活動は強引をきわめ、圧力行政を露骨に表してきた。 また、町当局や県が地元有力者へ酒食のもてなしを行っての切りくずし戦術をとっていることなども表面化していった。 79年12月に開催された石木ダム建設絶対反対同盟の委員会では、町長列席の上、町建設課の一瀬参事の手になる「」といういってみれば地元住民を恫喝(どうかつ)するが如き町当局の考え方が説明され、さらに加えて、地元住民がこれ以上、反対を続けると「土地収用法」が適用され、元も子もなくしてしまうぞ、という悪らつなおどしをかっけてきた。 このことに対して、12月町議会でも問題となり、社会党町議を中心に追及が行なわれるなど、同盟員の激しい反発を買うと同時に、川崎勝委員長を中心とする反対派幹部の条件派へのくらがえに大きな力を発揮してきた。 さらに、県は石木郷倉本に「石木ダム建設事務所」を設置し、常駐職員をおいて説得、切りくずし対策にやっきとなっていった。 こうした中で、反対派の強い川原地区の数名の青年部を中心に「ダムからふるさとを守る会」が結成され、独自の活動が始まっていったのである。 新たな運動の出発 1980年に入ると「ふるさとを守る会」の活動は活発化していった。 会報「住民運動の声」が発刊され、ダム関係地区のみならず川棚町にも配布されるようになっていった。 また、これまでの学習を集大成した「ふるさとを守ろう-水危機論のうらがわ-」というダム反対の論理を盛り込んだ立派なパンフを出版、広く川棚町民に配布する活動も行なわれた。 さらに、守る会は反対運動を強化するためには、県内の各種住民団体との連帯が絶対的な条件であるとし、住民運動推進懇話会との連絡を強め、一方、労働組合、革新政党との連帯強化を求め、東彼地区労の労働者との交流も進めていった。 東彼地区労は、幹事会の中で守る会に対する支援体制について確認、以後、各種の行動に地区労も積極的に取り組むようになった。 こうした守る会の活動に対して、反対同盟は「守る会の活動は住民運動からかけ離れ、イデオロギー色が強くなって、ついていけない」としついに80年3月10日、同盟総会において賛成48、反対26で反対同盟を解散することを決定した。 ここにいたって守る会は、川原地区23戸をもって新たに「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成したのである。 一方、川崎勝前委員長を中心とする人々は、4月4日、81戸を結集し「石木ダム対策協議会」を結成。 ここに運動は完全に分裂したのである。 その後、条件派の対策協議会は、ダム視察の補助を受け、各地のダムを視察すると共に、県とダム建設についての工事計画、補償概要説明を受けたが、反対同盟は県との話し合いを一切拒否、徹底抗戦のかまえをくずさなかった。 さらに、ダムや水問題の全国集会参加や各地区のダム反対住民との交流を深めていき、学習活動を強化していった。 1981年に入ると町と対策協議会は、測量調査の対応について話し合いに入るなど、反対といいながら、実質的には建設のための具体的な話し合いを始めていた。 こうした対策協議会の幹部の対応の仕方に反発を強めていた木場郷会員48名中33名は5月22日、対策協議会を脱退、反対同盟に加盟、28日、川原郷住民と共にダム建設絶対反対決起集会を開催した。 ここにいたって反対同盟は61世帯、対策協45世帯と、反対同盟が多数を占めることになった。 少数派となった対策協は、ダム問題に対応するため、今後、県と話し合いをしていくことを決議。 これを受けて県は対策協地権者に対し、測量実施についての協力要請のための個別訪問を始めた。 一方、反対同盟は、県との接触は一切せず、ダム、水問題などの学習会を開催するなど、理論武装につとめると共に、県内住民団体、地区労などとの連帯強化につとめていった。 1982年3月、3期12年続いた久保勘一長崎県政は、新知事高田勇県政へとバトンタッチされた。 「対話の県政」をスローガンに、圧勝をとげた久保知事は、一時期、県民から一定の好感を持って迎えられたが、後半になると南総事業や上五島洋上貯油センター建設計画などに象徴されるように、大型開発事業を「権力と金力」、なかんずく、札束攻勢という手段で計画推進にあたってきた。 これに対し、新しく誕生したばかりの高田県政は、県議会54議席中、自民党が31議席を占める保守絶対安定という議会構成を背景に、金力もさることながら、権力を振りかざしての官僚的県政を進めだした。 その典型的な現れが、いま、長崎県最大の課題露なった石木ダム建設に対する土地収用法第11条の発動による、機動隊導入ををともなった強制測量に見られるといえよう。 反対同盟は、ここに、いやおうなく全力を集中して闘いをいどまざるを得なくなったのである。 強制測量を実力阻止 82年4月2日、高田知事は殿下の宝刀といわれているに基づく立入りを公告、川棚町もこれを受理した。 県の言い分は次のようなものであった。 「50年度から着工予算が付いたが、毎年繰り越し続けていた。 当初の54年度完成見込みが大幅に遅れ、基本調査ができなければ、同意を得ている地権者に対して移転など具体的説明もできない。 強制測量は2月末まで延期し、話し合いの申し入れを待ったが、反対同盟は県のテーブルにつかなかった。 これに対し反対同盟は、徹底抗議の構えを取り、一方、県に対して話し合いの意思ありと通告、県の出方を見守ることにした。 事態を重視した社会党川棚支部は、臨時議会開催を要求、4月5日、町議6名から出された「石木ダム建設に伴う強制測量に関する意見書」の提出について審議、投票の結果、反対14、賛成6で否決、ここに町は事実上、強制測量を認めたのである。 この日から、反対同盟は町役場前に座り込みを開始した。 6日夜、反対同盟は初めて県との話し合いを持ったが、「測量に同意してほしい」と一方的に申し出る県と「強制立入調査を撤回し、出発点から話をしよう」という同盟の主張は噛み合わず、物別れに終わった。 8日、労働団体である県労評は対県交渉を行い「反対同盟が内容証明付きで県あてに話し合いの意見を通告している中で公告し、暴挙だ。 しかも警察機動隊を導入し、測量を強行しようとする県の姿勢は住民無視で、絶対に認められない」と抗議した。 また、9日の強制測量に」対し、現地東彼地区労を中心に組合員200名の緊急動員を要請、実力阻止の体制をとった。 明けて9日、時折り、みぞれまじりの冷たい雨が降る、4月とは思えない寒い朝であったが、川原地区の広場には「石木ダム建設絶対反対」のはち巻きをしめた住民が、午前7時頃から続々と結集してきた。 午前8時、広場に結集した300名は、県労評の宣伝カーを先頭に阻止線までデモ行進、デモの先頭には「孫のため、ひ孫のためにも、がんばらねば・・・」と、高齢で足の不自由な谷口スエさん(80歳)、中尾ハルさん(72歳)を乗せたリヤカー、続いて数珠を手にした婦人部隊、青年部隊、支援の労組員と続く。 参加した住民のほとんどがデモもピケも初めて。 しかし、先頭は旗竿を横に、力強い、整然としたデモ行進である。 静かな山村に「ダム反対!測量阻止!」のシュプレヒコールがこだまする。 「 石木ダム反対の歌」がひびきわたる。 支援に来た組合員が「デモはこうなけりゃ-、学ばされます」と語る。 ダム建設予定地600メートル手前の阻止線に到着した時には阻止隊は約500名にふくれあがっていた。 この中には、この日、対策協を脱退する決意を固めデモに参加した3家族があった。 午前9時、湯浅昭県北振興局長を先頭にした測量隊24人が到着、たちまち激しい阻止行動が開始された。 「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコール、先頭の婦人部隊は数珠を持つ手を合せ、合掌、涙ながらの抗議が続く。 ついに冷たい雨にぬれている道路に正座しての抗議となった。 座り込んでいる部隊の数十センチそばをジャリを満載したダンプカーが次々に走り抜ける。 安村県北振興局建設部長がハンドマイクで「土地収用法第11条に基づく調査、測量です。 妨害しないでください」と通告するが、抗議の声にかき消され弱々しい。 時折り激しくみぞれが降りしきる。 それでも婦人部隊は一歩もしりぞかない。 「死んでも先祖の土地は渡さん」と強い信念が浮かんでいる。 突然、宣伝カーから独経の声があがった。 この日、支援のためにかけつけてきた「橘湾を守る会」三角宣之さんである。 三角さんは、川原地区のほとんどの人が信仰している真宗大谷派のお坊さんでもある。 反対同盟の結束が固い大きな原因の一つは、温かい隣人愛と真宗大谷派の信心にある。 午前10時、機動隊百数十名を待機させての強制測量であったが、ついに県は測量をあきらめた。 振興局長を先頭に引揚げだした。 デモ隊から一斉に声があがる。 「もう、二度と来るな!」激しい抗議の声とシュプレヒコールがおいかける。 ついに測量は阻止された。 県は午後からも、と考えていたが、午後1時45分、この日の測量を断念した。 反対同盟は、県側を追い返したあと、川原広場で勝利集会を開いた。 県労評、地区労、住民団体の代表が次々に劇れのあいさつ、「団結で阻止した。 今後とも勝利まで闘い抜こう!」と気勢をあげた。 集会の後、同盟員は川原公民館に集まり、勝利の酒盛りが始まった。 それぞれの家族から持ちよった自慢の山菜料理をさかなに、勝利の歌声はいつまでも続いた。 翌日の各紙は大見出しで住民側の勝利を報じていた。 川棚町民の世論も急激に変わっていった。 テレビを見てかけつける町民、あっという間に百数十本の陣中見舞い、カンパが集まってきたのである。 自由民主党長崎県連合会村崎精衛総務も「ダム建設は絶対に許せん。 われわれも有効な手を打つ」と語った。 ついに機動隊導入 県は、12日にも、再度強制測量に踏み切る予定だったが、マスコミを中心とする県民世論の動きに、とまどいを見せ、話し合いの姿勢を見せざるを得なかった。 しかし、支援者などの出席者の条件をめぐって対立、流会となった。 続いて20日の事前協議も「測量中止が条件」とする反対同盟の意見と平行線をたどった。 26日、三村副知事が出席、これも物別れ。 ついに5月14日夜、高田知事が出席し深夜まで話し合いが続いたが「測量調査と並行して話し合いをしたい」と主張する高田知事、これに対し「県は話し合いを一方的に打ち切らない。 話し合いの間は測量を中止する」とする反対同盟の主張が噛み合わず、激しい応酬の末、物別れに終わった。 高田知事は別れぎわに「みなさんの気持はよくわかった。 持ち帰って検討する」と言って別れたが、知事からの何の返答もないまま、5月21日の機動隊導入を併った強制測量の実施となった。 この日の測量実施を反対同盟が知ったのは20日、夜おそくのテレビであり、各紙が「抜き打ち強制測量」と報じたように、まさに、反対同盟の虚を突いた暴挙であった。 この日、反対同盟は家族ぐるみの動員をおこない、徹底的に阻止行動を展開した。 この日の行動には、自発的に参加した37名の小・中学生も加わっていた。 午前8時30分、室原王国旗を先頭に阻止線に進出。 9時40分、測量隊が出発したとの情報が入り緊張が広がる。 ついに測量隊が到着、激しいもみ合いとなった。 座り込みが始まる。 大人たちのシュプレヒコールにまじって「カエレ!カエレ!」子供たちの鋭い抗議の声が飛ぶ。 j10時10分、県警機動隊指揮車が前面に出た。 この日出動した機動隊150名、怒号と悲鳴がひびきわたる。 老人も、婦人も子供たちも、みさかいなく、ようしゃのないごぼう抜きである。 機動隊にだきかかえられた子供たちは、泣きながら手足でけり、噛みついて抵抗する。 婦人の首根っこをおさえ、地面におさえつけて引き抜いていく。 お老よりが「オレは死ぬまで闘うぞ!」と白髪をふりみだして抗議する。 引き抜かれた同盟員は、後にまわって再び座り込む。 子供たちは機動隊の足もとをすり抜けて座り込む。 ガケをよじのぼり、川を渡り、麦畑を駆け抜けて次々に抵抗の拠点を作りだしていく。 11日45分、ついに測量隊は第一測量地点に到着、同盟員は地面にはい、手を取り合って抵抗するが、ついに排除され、はじめてのクイが打ち込まれた。 「土地にクイは打ち込まれても、心にクイは打ち込まれない。 」子供たちも含め、反対同盟は怒りに身をふるわせた。 「われわれが、どんな悪いことをしたというのか・・・」「われわれは虫けらじゃない-」。 この日、村人たちの最も大切なものが無残にも破壊された。 「土地の和」が徹底的に破壊されたのである。 この日から23日、24日、26日、31日、6月1日、2日と七次にわたる強制測量が実施された。 この間、反対同盟は徹底的に抵抗した。 入院患者2名を含む数十名の負傷者が出た。 子供たちは24日まで闘いに参加した。 このことは教育界にも大きな波紋をよんだ。 このことを知った長崎大学教育学部学生有志がかけつけ、公民館で自主学習も行なわれた。 「お父さんたちが頑張っているのに、ぼくたち家族が協力せん方がおかしい。 学校へ行くより、ふるさとをまもる方が大事です」という。 テレビを見た佐賀県の小学生との文通もはじまっている。 県のこのような暴挙に対し、世論は一斉に反発した。 「いま、なぜ強制測量、浸透せぬ県の開発論理」「募る双方の不信感、結論やはり話し合いで」「打開の展望開けず」「県不信の感情増幅、前途険しい高田県政」と批判、こんな状況に追い込んだ県、町の行政側の責任は重いと各紙が報道した。 県民の「声」も「土地を一度か二度、知事が出向き、時間がないからといって、不意に測量に出かけたというのでは、そしりをまぬかれまい。 ・・・知事は代人でなく百度でも二百度でも出かけて、その交渉にあたってよかったはずである」という意見に代表されるように、ほとんどが反対同盟に対し同情的であった。 また、佐世保市の桟市長はなぜ現地に出向いて頭を下げないのか」「一発ビンタをかましてから、さあ、話し合うもないみんだ」という意見も多い。 自民党の初村誠一県議会議長ですら機動隊導入の前に礼を尽くすべきだ。 それを道交法違反で排除するなんて何ちゅうこっかい」と語気鋭く語ったという。 高田知事はいま、土地収用法第11条にもとづく私有地内測量の法的手続きを進めようとしている。 7月中旬から第二次測量に入ろうというかまえを見せ、一方では、第三者の仲立ちによって話し合いの糸口をつかもうとしている。 しかし、水資源公団草木ダム建設所長荒木正夫氏がいみじくも報告しているように「ダムの用地交渉に臨んで強制測量、強制代採等の無理押しは非常の場合を除き絶対に禁物である。 多数の相手に対して土地収用法はあてにできぬ・・・殿下の宝刀は抜かない所に値打ちがある」という言葉が正しいとすれば、高田県政は、その第一歩からあやまったといってよいだろう。 高田県政は、誕生早々から不安な道を走りはじめている。 (このレポートは月刊総評7月号に載せたものに加筆訂正したものである 1982年6月20日)•

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更新日:2020年6月10日 【新型コロナウイルス】特別定額給付金について 特別定額給付金支給状況について(6月11日現在) 特別定額給付金の支給につきましては、申請書到着順に内容の確認を行っておりますが、現在申請が集中して時間を要しています。 ご理解くださいますようお願いいたします。 オンラインによる申請分は5月22日から、郵送による申請分は6月5日から確認が終了したものより、順次支給を開始しています。 現在は、毎週火曜日と金曜日を基本に支給を行っています。 申請件数 約11万件(対象世帯数約12万世帯)• 給付件数 約29,000件(6月12日振込み予定含む) 今後の給付予定日(6月分) 6月12日(金曜日)、6月16日(火曜日)、6月19日(金曜日)、6月23日(火曜日)、6月26(金曜日)、6月30日(火曜日) 給付金についての問い合わせはコールセンターへ 佐世保市では、佐世保市特別定額給付金コールセンターを設けています。 電話番号は 050-3085-7653です。 お掛け間違いがないようにご注意ください。 また、現在コールセンターへの問い合わせが殺到しており、9時から9時半、13時頃、15時から17時は特につながりにくくなっております。 お手数をおかけしますが、時間をずらして電話をお願いいたします。 特別定額給付金の事務所はJAながさき西海会館3階です 特別定額給付金事務局はJAながさき西海会館3階(佐世保市松浦町2番28号)で執務を行っております(平日9時から17時)。 給付金申請については、コロナウィルス感染防止の観点から、郵送での申請をお願いしています。 佐世保市役所には、受付窓口は設けておりませんので、ご注意ください。 Q1 いつ申請書が届くのですか。 まだ届いていないのですが。 佐世保市では5月20日に申請書を発送していますので、ほとんどの世帯に届いていると思われますが、住民票の住所と実際に住んでいる住所が違う方など、何かしらの理由で郵便物が届いていない方がいらっしゃいます。 そのような方には申請書の再送付を行っておりますので、コールセンターにご連絡ください。 新型コロナウィルス感染防止のためでもあり、申請書の提出は郵送でお願いしています。 ご理解のほどよろしくお願いいたします。 (例)住民票の住所と実際に住んでいる住所が違うので申請書が届いていない。 そのような方はを特別定額給付金事務局【JAながさき西海会館3階(佐世保市松浦町2番28号)】に提出していただく必要があります。 事務局が申請書送付依頼届を受理した後に給付金申請書を実際の住所に送付させていただくようになります。 手続きがご不明な方は、コールセンターにご連絡ください。 Q2 添付書類を付けずに申請書を出してしまいました。 どうしたらいいですか。 本人確認のコピー及び通帳のコピー添付忘れの方には、申請書をお戻し致しますので、再度申請書に添付して提出してください。 順次発送いたしますので、いましばらくお待ちください。 Q3 申請手続きはどうすればいいですか。 令和2年4月27日において住民基本台帳に記載されている方が給付を受けることができる対象者であり、申請は世帯単位となります。 世帯主が世帯を代表して申請を行うようになっています。 申請方法は以下の2通りがあります。 (1)郵送申請方式 郵送で届いた申請書に振込先口座を記入し、本人確認書類の写しと振込先口座の確認書類とともに市に返送していただく方法です。 (2)オンライン申請方式 署名用電子証明書と利用者証明用電子証明書の両方が搭載された顔写真つきのマイナンバーカードをお持ちの方のみご利用可能です。 (5月1日申請開始) 佐世保市においては、オンライン申請方式の受付が始まっており、多くの方が申請されていますが、内容の不備が多い状況です。 郵便申請方式をご検討ください。 内容に不備があった場合は、申請された方へ内容確認のご連絡が必要になるため、給付金の給付が遅れてしまうことになりますので、ご注意ください。 多く見受けられる不備の事例は、次のとおりです。 オンライン申請を予定されている方は、ご注意ください。 (茨城県五霞町のオープンデータを活用しています) Q4 必要書類はありますか。 2点必要です。 1点目は申請者(世帯主)の確認書類のコピー。 2点目は申請者(世帯主)の口座情報(金融機関名、支店名、分類、口座番号、口座名義)が確認出来る部分(通帳の最初のページ、キャッシュカードなど)のコピー。 その2点を申請書に添付(申請書の裏面にのり付け)して提出をお願いします。 本人確認書類の一覧 顔写真付 運転免許証、運転経歴証明書、パスポート、マイナンバーカード(写真付きの面)、住民基本台帳カード、身体障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳、療育手帳、戦傷病者手帳、船員手帳、在留カード、特別永住者証明書、海技免状、電気工事士免状、無線従事者免許証、認定電気工事従事者認定証、特殊電気工事資格者認定証、教習資格認定証、検定合格証、宅地建物取引士証、耐空検査員の証、動力車操縦者運転免許証、猟銃・空気銃所持許可証、航空従事者技能証明書、運航管理者技能検定合格証明書、など官公署発行の顔写真付き身分証明書またはこれらと同等の書類 顔写真なし 健康保険証、介護保険証、国民健康保険証、後期高齢者保険証、生活保護受給者証、船員保険被保険者証、年金手帳 顔写真ありなしに関わらず、本人確認書類の提出は 1点のみでOKです。 ただし、顔写真あり、なしどちらとも有効期限があるものについては、期限内のものに限ります。 Q5 申請期間はいつまでですか。 申請期間は令和2年8月31日(月曜日)までです。 申請期限を過ぎての申請は受け付けることが出来ず、給付金を支給出来ません。 令和2年8月31日郵便消印まで有効です。 ご注意ください。 Q6 代理申請とはなんですか。 誰ができるのですか。 代理申請とは、申請者(世帯主)による給付金の申請や受給が困難な場合に限って、代理人が給付金の申請や受給を代わりに行うものです。 代理申請をする場合には、申請者(世帯主)と代理人両方の本人確認コピーを提出してもらいます。 なお、代理申請には、申請者(世帯主)と代理人との関係を証明する書類の添付が必要となります。 代理申請ができる者 (1)令和2年4月27日(月曜日)時点での世帯構成者 (2)法定代理人(成年後見人、代理権付与の審判がなされた保佐人及び補助人など) (3)親族その他の平素から受給対象者本人の身の回りの世話をしているもの等で市が特に認める者• 申請者(世帯主)と代理人との関係を証明する書類については下記表のとおり 代理人となる者 関係を証明する書類の有無 世帯構成員 関係を証明する書類必要なし 法定代理人 戸籍謄本・登記事項証明書・後見選任の審判書の謄本または代理権付与の 審判書の謄本のうち、代理権を確認できる書類の写しと身分証明書の写し 世帯構成者以外の親族 世帯主の方との関係を証明できる戸籍謄本等と身分証明書の写し 特別定額給付金に関する特殊詐欺等に注意してください• 市や国・県(総務省等)がATMの操作をお願いすることはありません。 市や国・県(総務省等)が給付のために手数料の振込みを求めることはありません。 市や国・県(総務省等)が自宅訪問し、給付金についての相談をすることはありません。 給付等をかたった不審な電話等があった場合は、警察署や市にご連絡ください。 配偶者やその他親族からの暴力等を理由に避難されている方への支援があります 配偶者やその他親族からの暴力等を理由に佐世保市へ避難している方で、事情により令和2年4月27日時点で佐世保市へ住民登録をしていない方は、事前に必要書類を添えて申し出ることで配偶者から分離して給付を受けることができます。 詳しくは広報チラシをご覧ください。 特別定額給付金とは 令和2年4月30日に簡素な仕組みで迅速かつ的確に家計への支援を行うため、国において「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」の補正予算が可決成立された緊急対策の1つです。 給付対象者 令和2年4月27日において、住民登録されている者 受給権者 その者の属する世帯の世帯主 給付額 給付対象者1人につき一律10万円 制度については、総務省の特設ホームページをご覧ください。

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