ケータイ を 持っ た サル。 「ケータイを持ったサル」の時代に

正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す~: 新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~

ケータイ を 持っ た サル

asyura2. このコミュニケーション革命は、インターネット以上に大きな影響を社会へ与えている。 これまではITの技術論や社会学的なネットワーク、コミュニケーションからのアプローチで語られてきたこの変化は一体何なのか・・・? ネットでのコミュニケーションも今やケータイ世代がその中心に座って、さまざまな分野での変化を感じている。 ぼくにとっても、つながる機能をもったweblogという道具がなぜ日本ではつながらないのか・・・、とかいろいろ考えることが多い。 パブリッシングとコミュニケーションとしてそれを考えたこともあったが、なかなか上手く説明できない。 普通、本の紹介は自分で読んでから行なうものが正道であるのは知っているが、これから本屋へ行き、購入して、読んでいたのでは数日後になるので、ズッコして、書評の紹介というお手軽な方法を採用。 「ケータイを持ったサル」の著者は、正高信男さんといって京都大学霊長類研究所の教授である。 つまりサル学者としての研究と知識を総動員して、ケータイ世代の行動を観察し、分析しているのだ。 ケータイ文化とサルのコミュニケーションの類似性が指摘され、タイトルからの期待を裏切らない、らしい(・・・未だ読んでない)。 ・・・公の場を拒否して、私的世界の中だけで生きようとする。 などなど、書評を読んだだけで思わずうなずく鋭い指摘が書かれている、らしい。 こうした変化は、実はケータイの登場と共に始まったのではなく、単にそれが加速され、顕在化しただけで、その根本は日本に母子密着型子育てが定着したことによると分析し(ニホンザルの子育て)、文明の成立以降、子どもが主に親によって育てられる時代が始まったのは、実はつい最近のことで、それ以前は高齢者、すなわち祖父母が担っていたことが人類学者による世界各地の調査などからもわかっている、そうだ。 ウゥム、常識がどんどん覆されていく。 日本人のサル化は、過去百年(つまり近代社会の成立から後)にわたる日本の家族の変化がもたらす歴史的必然、とまで著者は言い切っている、らしい。 著者個人としては、「もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと願っている」、そうである。 そうしたサル化した日本人のコミュニケーションを実際に見てみたい方にお薦めのサイトは、ここ。 14, rev. 2003. 1 最近発生してきて、これからも増えそうな将来性のあるタイプのバカは、家の外も内もない、ハレもケもない、すべてが日常のノンベンダラリ型である。 その代表選手は、化粧組とケータイ組。電車に乗って座るや否や、デカい鏡を取り出してチョコマカ化粧を始める。まつげカーラーで細工している手の込んだのもいる。 電車が急停車でもして、いっぺんカーラーで目ん玉挟まれてみい。 携帯電話自粛の表示などあってもなくても関係なし。「これは携帯電話とは違う、ケータイだもんね」とばかりに、座席にすわった途端、ふたを開くケータイ組も似たようなものだ。大抵の場合、たいして重要でもないメールを見たり書いたり削除したりして、時間を浪費しているに過ぎないのだが、もとより本人には浪費したという感覚はない。 書くのも登録されたひな形文章をつなぎ合わせてすませてしまえば、時間が節約できて効率的だった、という感覚である。 これが最近いい年したオバハン、オッサンにまで拡がってきた。 ケータイを取り出して画面を見る手つき・目つきは、化粧鏡を取り出して見る手つき・目つきとそっくりだ。いずれも自分と自分の身のまわりにしか関心を示さない点で、ケータイ組と化粧組は親戚のようなものだろう。四六時中ケータイ画面を見ていると前頭葉のはたらきが衰えるという説もある。自分の頭で考えないバカが増殖するはずだ。 ぼくのいつも乗り降りする地下鉄のターミナルには、大学のスクールバスが入ってくる。降りてくる学生の顔を見ていると、これが大学生かとほんとに情けなくなる。 ふぬけたというか、覇気がないというか、とにかく勉強しよういう顔ではない。 いやほんまに。あほみたい。 その後、「ケータイを持ったサル」(正高信男: 中公新書 2003. 9 という書物が出版された。 ケータイ族の行動は、「公の世界を拒否して、私の世界の内部にだけで生きようとするあまり」サルに酷似しているそうだ。著者は霊長類コミュニケーションの専門家であり、その所論は耳を傾けるに値するだろう。 彼等とコミュニケーションをとるためには、ヒトの言語とは異なる言語を用いる必要がでてくるとすれば、厄介な話だ。 (私のコメント) 本屋の店先に積んであった本の中に「ケータイを持ったサル」と言う本があった。 面白い題名なので読んでみましたが、最近の若い人がケータイにのめり込む背景について書いてる本です。 そこから、なぜ日本の小中高生達がサル化してしまったのかがわかる。 結論を言えば大人が悪いのですが、日本の若者がサルに退化してしまったのは戦後からだ。 それでも戦後20年ぐらいは戦前に生まれ育った世代が多かったから、サル化の傾向は少なかった。 都市化と核家族化が本格化してその世代の子供が育ってきた頃から日本人はサル化してきたように思う。 著者の正高氏は京都大学の霊長類の研究家ですが、日本の若者の生態を分析するには、サルや霊長類を観察分析している方法が望ましいのだろう。 私は日本の若者がどうして急激におかしくなってしまったのか、原因はよくわかりませんでしたが彼らをホモサピエンスとは見ずに霊長類として見れば納得が行くことが多い。 集団でいるとワイワイガヤガヤ騒々しいのに、一人で公の場に出ると何も話せなくなる現象は、小中学高校生が従来の人間のコミニケーション手段とは異なる手段で意思を伝え合っているからだ。 実際彼らの話していることを聞いてみても何を話しているのかがわからない。 あまりにも感覚的な言葉が多すぎてテキストに出来ない。 サルの集団が奇声を発し合って仲間との一体感を感じるのと同じなのだろう。 それでも戦後しばらくは実社会で教育しなおされてまともな人間になれたが、最近は会社に就職しても直ぐにドロップアウトしてしまう若者が多い。 霊長類として育った若者は、少なくとも10年ぐらいは会社や軍隊のような組織社会で訓練されなければコミニケーションすら出来ない霊長類で終わるのだろう。 最近ではフリーターとか引篭もりといった生態は人類がサル化してしまった証拠である。 なぜ最近の家庭は子供を人類としてではなく霊長類に育ててしまうのか。 その原因は戦後の文部省教育と家庭教育に責任がある。 文部省はともかく、家庭教育は従来は祖父母が子供を躾けてきたが、戦後のGHQの指令により大家族制度が崩壊し、核家族となることにより親が子供の躾を担うようになった。 しかしそれは物理的に難しいことだ。 両親は働いて生活費を稼がねばならず、従来は子供の躾けは祖父母が担ってきたのだ。 私が育った環境も家には祖母がいた。 私は祖父母が同居していた最後の世代だ。 しかしそれ以降、核家族が一般的になり、祖父母達は故郷の田舎で子や孫から見捨てられて生活している。 つまり孫を教育してくれるはずの祖父母は社会からスポイルされているのだ。 テレビでは毎日のように青少年による凶悪犯罪が報道されている。 件数としては減ってはいるのだが平気で親を殺し、自分の子を殺す事件が多い。 マスコミはこの原因を掴みかねているようだが、核家族化が子供の躾を出来なくしている原因であることを何故指摘しないのだろうか。 あるいはマスコミもサル化が進んでしまっているようだ。

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『ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊』の感想、レビュー(マーブルさんの書評)【本が好き!】

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京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏に関する批評です。 現在「病」「堕落」(1~4)「頽廃」「斜陽」「零落」まで公開しており、「落日」「脱却」、および番外編「犬山をどり」は企画中です。 巷で話題をさらっているトンデモ若者論を斬ります。 現在取り扱っているもの: 正高信男『ケータイを持ったサル』『人間性の進化史』『考えないヒト』『他人を許さないサル』 江原啓之『子どもが危ない!』 柳田邦男『壊れる日本人』 三浦展『ファスト風土化する日本』『仕事をしなければ、自分はみつからない。 』『「かまやつ女」の時代』 草薙厚子『子どもが壊れる家』• 若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探ります。 現在シリーズ6回。 巷の成人式論に関して格付けを行っています。 現在シリーズ1回。 問題のある成人式論を検証する「成人式論は信用できるかSPECIAL」も企画中です。 新聞や雑誌の記事における俗流若者論を検証していくシリーズです。 現在シリーズ71回。 俗流若者論に抗うための本や記事を紹介します。 現在シリーズ2回。 私の購入した総合雑誌や論壇誌の文章に関するコメントを掲載します。 以下の文章は、私が2004年に入ってはじめて書いた文章ですが、最近正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)という本が20万部を突破したそうで。 おめでとうございます。 しかし、この本は内容的に間違いだらけであるのに重ねて、思想的な問題もはらんでいますので、私の現在の見解としてこの文章を公開いたします。 なお、現在、この本に関する新しい論考を執筆中です。 この本に関しては、オンライン書店「bk1 ビーケーワン 」でも批判しておりますので、そちらもご覧ください。 京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』である。 この本は発売以来、新聞その他で大評判になり、新書では、解剖学者の養老孟司氏の一連の著作と並んで、現在でもベストセラー街道を行進中である。 今年1月4日付の朝日新聞に掲載された中央公論新社の広告によると、掲載時点で15万部も売れているそうだ(ちなみに養老孟司氏の『まともな人』は24万部だそうだ)。 私がこの本を手にしたのは昨年12月の上旬で、各所で話題になっていたし、タイトルからして「今時の若者」について取り扱っている本だろうから読んでみようか、という気持ちで読んでみたのだが、一読して唖然とした。 冒頭の文は、この本に対する私の第一印象である。 あまりにもステレオタイプな若者観。 あまりにもデタラメな考証。 その執筆スタンスは学者のものとは到底思えない。 何故このような本がベストセラーとなり、「識者」と呼ばれる人にもてはやされるのか(現役の生物学者までもがこの本を絶賛していた)。 そう思えてならない。 例えばルーズソックスについて述べたくだりで、正高氏は《(筆者注・ルーズソックスの)真の機能にはたと気づいたのだ!》とはしゃいでいるが、正高氏をしてその《真の機能》なるものに気付かせしめたものが、なんとホテルのスリッパなのだ(11~12ページ)。 これがいかにデタラメな考証であるかは明らかであろう。 サンプル数も少なすぎるし、靴のかかとを潰している人だけに限定する理由も分からない。 そんな初歩的な疑問は少しも抱かずに、正高氏は、ルーズソックスなどの現象を、たとえ家の外であっても「家の中」の感覚でいたい、とする今時の若者の感覚の表れだ、と結論付けている。 だが、少し考えれば分かることだが、このような考証で導かれた「結論」に少しの信憑性も見出せまい。 第3章では、ニホンザルがお互いの位置を確認するために「クー」という音を発する行為に触れ(これを「クーコール」というらしい)、その後唐突に《若者が携帯でメールをやり取りするのと、そっくりだと思う》と切り出してくる(67ページ)。 こんな雑駁な比較で「コミュニケーションが退化している」と言ってしまう正高氏の感覚が分からない。 他にも、特に第1章と第3章に、同じような粗雑な比較が頻繁に出てくる。 こんな比較ができるのも、正高氏が、今時の若者はみんなサルだ、と思い込んでいるからだろう(事実、正高氏は、まえがきで渋谷の女子高生を「珍種のサル」と決め付けている)。 統計データの面にも大きな問題がある。 第2章は、親の年収や養育費の調査が載っているが、どうもこの調査がいただけない。 まず、全体的にサンプル数が少なすぎる。 また、都市部や農村部、郊外との比較もなく、時系列での比較もない。 変数として採用されているのは現在の年収だけだ。 あまつさえ、養育費の内訳は、他に統計を調べれば出てくるだろうに、正高氏は、推測だけで計算してしまっている(39ページ)。 第3章・87ページの「エレベーターの会話」の調査では、サンプル数と調査方法すら明記されていない。 第4章で採り上げられている「投資ゲーム」問題でも、正高氏は、女子高生50人を、携帯電話を頻繁に使う人とまったく使わない人、それぞれ25人ずつに分けて、そのグループの中でペアを組ませる、と書いているが、25人でペアは組めない。 第5章の「4枚カード」問題でも、何故カードに書かれている文字を「数字」と「アルファベット」から「年齢」とか「社会的な決まり」に変えるだけで、「社会的かしこさ」を測定するテストになるのか疑問である。 これほどまでに杜撰な本であるが、この程度で驚いてはいけない。 同書のあとがきで、正高氏は、こんな恐ろしいことを書いているのだ。 《ただ、私個人は基本的にサルとなじんだ行動の研究者である。 だから、もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと思っている。 せいぜい体に気をつけて、長生きを心がけよう。 》(184ページ) なんということだろう。 正高氏は、「現代の日本人はサルに退化している」という架空の仮説を立て、その中で妄想を膨らまして、人間がサルに退化することがさも社会の危機であるかのように煽り立てていたのに、最終的には、日本人が退化することを望んでいるのだ。 正高氏にとっては、《サルに近づいた人間が社会にあふれる》事は「よいこと」なのかもしれないが、それが度し難い無責任であることを、正高氏は何故知ろうとしない? 最後に、私も、正高氏に長生きしてもらいたいと考えている。 正高氏が、妄想から脱出し、元の真面目な動物行動学者に戻ることを、私は切に望んでいるからである。 (2004年1月8日) この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。

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『ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊』の感想、レビュー(マーブルさんの書評)【本が好き!】

ケータイ を 持っ た サル

紙の本 内容も良いが、タイトルと帯がすばらしい。 投稿者: ちひ - 帯には、携帯電話【ケータイ】を持って「ヤダー」「ウソー!」「マジ?ー」と喋る女子高生(または女子中学生?)が三人描かれている。 著者は一九五四年生まれの真面目なサル学者である。 現在の若者の文化一般はおおむね苦手で、携帯電話を持たず、パソコンのメールもあまり好きではない。 だが止むに止まれぬ事情で若者がたくさん集まる渋谷に定期的に行かねばならなくなり、そのときに若者の行動をあまりに奇異に思ったことと、その奇異さに興味を持ったことから、持ち前の好奇心と分析能力を駆使して本書を書いた。 最初はサルと現代の若者との行動が比較され、類似点が次々と挙げられる。 著者の比較する分野では、たしかに現代の若者は「サル化」?しているのかもしれない。 しかし若者の「サル化」?現象は日本人全体が子育てを軸として戦後にたどってきた道筋の当然の帰結でもある。 著者はそれを明らかにしつつ、社会全体の物理的変化やメンタルな変化について、鋭く斬り込んでいく。 論じられている内容は、「ひきこもり」、母子密着、家のなか主義、「公的言語」、子ども中心主義、「関係できない」症候群、社会的かしこさ、「専業主婦」、少子化など、非常に多岐にわたっている。 いろいろな「常識」がくつがえされ続けるので、人によっては一冊で数度のパラダイムシフトが経験できるかもしれない。 (最近読んだ中では最も秀逸なタイトルと帯でした。 投稿者: 良書普及人 - 本書の著者である京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の 話を伺う機会があった。 携帯電話の普及が、携帯電話を作っ た人の予想を超えた使い方をもたらしており、日本ではその ことが家族の崩壊に繋がりかねないと警鐘を鳴らしておられ た。 正高教授に依れば、固定電話の時代は一家に一台で家族単 位の情報集約が出来、子供の生活実態もそれなりに把握可能 であったものが、親とか家といった「窓口」を通さずに、子 供が自由に行動し始め。 子供だけの世界を持つようになった。 最早、空間的に近いということは、「一緒にいる」保障でも 何でもなくなった、ということだ。 そこで、本の題名に繋がるのだが、携帯の普及そのものは、 必ずしも子供の「サル化」をもたらすものではなく、北欧な どを見ると携帯の普及率の高さは、だらしなさと関係ないこ とが分かると指摘しておられる。 「サル化」とは、容易に想像がつくように、NEETや引きこも りといった自らの世界に閉じこもる若者やそれと対極に公私 の区分の出来ない、靴の踵を踏みつぶし、スカートをはいた まま地べたに座り込む女子高生などの若者の生活実態のこと を指している。 公私の区分とは、きりっとした服装や靴をきちんと履くこと で世間に出る覚悟が出来ることから始まる、という分析。 そ れが出来ないと、公の人間として行動することを拒否してい るということになると断言する。 欧米と日本が違うところが そこにあるとの論。 何故日本の場合はそうなのか。 その分析が正高教授の学者と しての真骨頂。 教授の調査では、日本人の3歳から5歳のこ どもは攻撃性が少なく、怯え度合いが少なく、社交性が高い のに対して、米国は、攻撃性が高く怯え度合いも高く社交性 も低いとのことだ。 要は、日本人は学齢期までは「良い子」で育てることが子供 の親離れを助長できず、ひいては母親の子離れも助長できず、 自立できない日本人を大量に作り出している原因だと指摘し ている。 よい子は親の期待どおりに行動しようとする。 親は子供に辛 い思いをさせないように育てる。 「お前にはあらゆる可能性 がある」と万能感を与え続けて育てる。 そのまま思春期に移 行し、そこで人生初めての挫折感を味わうことに。 それを乗り越えられない若者は引きこもる。 男の子は責任が あるとされているので、責任を感じて引きこもる。 女の子は、 挫折により、とにかく毎日が楽しければいいやと開き直るの で、公の場でも私を通し、だから電車の中で大声で喋ったり、 化粧をしたり、スリッパ代わりにかかとを踏んだ靴で外出し、 と分析観察する。 パラサイトシングルはその結果に過ぎない。 夢が叶わなかっ た場合の答えを持っていない。 自立感がないし、子供を持つ ことなど考えない。 自分が依存しているので人に依存される ことなど考えられない。 ましてや年金の掛け金を収める気に は到底ならない。 そういう引きこもりが100万人以上日本にい る。 日本では自立を促す教育をしていない。 教育は、ストレスの後 送りをやっているので、ストレスに強い子供が育たない。 人間 は辛い思いをして脱皮して一人前になるのに、そのプロセスが 無い。 ストレスに強い子供を育て、自立心を育める教育を行わ ないといけない。 この現象は、ニホンザルの集団と似ている。 群だけで生活しているサルは、母親から離れずに育つ。 社会が 狭い。 日本はサル化している、ということになるのだそうだ。 投稿者: みなとかずあき - 最近の新書は、体裁だけは専門家が最新のトピックスを一般市民にわかりやすく解説したり、新たな問題提起をするという形を残しているけれども、内容は瑣末な事柄を大げさに取り上げていたり、それを誇張するようなキャッチコピーのようなタイトルだけが目立つペーパーバックと化しているように見えるので、よほどでないと読むことはしないし、ましてや購入などしないようにしている。 新書の「新」はそのものズバリ新しい事柄を取り上げているということを表しているのに他ならないし、新しいことというのはその後の評価によっていくらも古びれてしまったり、間違いであることがわかるものだということを肝に銘じておかなければならない。 だからこの「サル」シリーズ(?)も売れていることは知っていても、立ち読み、流し読みで済ませるつもりでいた。 が、やはり数十万部も売れた本を見逃しておいてはいけないとも思って、遅ればせながら読んでみた。 サル学、霊長類学が、その究極の目標としては、私たち人間がいかにして人間になったのかを知ることにあるのは、ある意味当然のことであり、だからこそこの正高氏のように、普段はサルを相手にしていても興味関心がヒトへ向かっていくのも当然だとは思う。 だが、その興味があくまでも個人レベルの感想のようなものである限りは、あまり普遍性を持つこともないのではないだろうか。 ここで取り上げられている現在の若者状況は、すでに多くの人たちが指摘し、さまざまな角度から評価、解説されている問題でもあるが、それを自分の専門に引きつけて説明しようとするのならば、できるだけ思い込みや偏った見方を排除して語るべきと思う。 この本で述べられているものは、サルに(人間と同様の)家族はないとの話から始めて、マザコンやひきこもり、母子密着の家庭、コミュニケーション能力と、現在の(特に日本の)若者のサル化をこれでもかと並べ、その原因に専業主婦の存在などを持ってくるというものだが、これはあくまでも著者の感想であり、自分が知っていることに引きつけて考えた時の一面的な見方であるとしか言いようがないと思えてしまう。 だいたい今時ここで語られているような専業主婦はどれくらいいますか。 そして、最後は少子化の話にまで持っていくのだから、何だか著者が日頃疑問に思って、たまっている鬱憤をすべて吐き出してやれといった感じに見えてしまう。 もちろん森羅万象をすべて一人で、ある学問一つで説明し尽くすことはできないので、どうしてもある一面を切り取った話にはなるのだろうけれども、ここで語られていることだけで「人間らしさの崩壊」なんて言ってほしくないと思う。 と言うことをいちいち指摘するまでもなく、刊行から4年を過ぎようとした今では、誰もこんなことを言っていないように思うが、どうだろう。 それに何よりわずか4年で若者もまた変化しているように思えるのだが。 投稿者: 後藤和智 - 正高氏の執筆スタンスからして問題がある。 正高氏は、渋谷で見かけるような「地面に平気で座り、携帯電話で話しているような」(仙台ではあまり見かけない光景だなあ)女子高生を「珍種のサル」と決め付け、それ以降、現代の若者はサルである、という前提で議論を進めている。 「今時の若者」とサルとの雑駁すぎる比較論が展開できるのもそのためであろう。 確かに、巷で見かけるような、あるいはメディアで喧伝されるような「今時のダメな若者」に対する不満を持っている大人達のカタルシスにはなるだろうが、科学者としては失格である。 特に、第1章で論じられている、「ルーズソックスの真の効用」については、ユースカルチュアのまじめな研究者が読んだら爆笑するだろう。 よりによって、「ルーズソックスの真の効用」に気づいたのが、ホテルのスリッパですか。 草履や下駄はどうなるんだろうね。 それよりも問題があるのは、本書における統計データである。 まず、サンプル数が少なすぎる。 また、都市部と郊外や、都市部と農村部という比較がまったくない。 さらに、時系列での比較もない。 仮に正高氏が「現代の若者はサルである。 それは親がそうなるように育てたからである」と主張するのなら、祖父母の代までさかのぼって考えるべきであろう。 国民の生活に関する統計など、少し探せばいくらでもあるはずだと思うが。 このような統計調査は、本来なら社会経済学系の研究所の協力を得てなされるべきだと思うが、同書には、正高氏が独自に取ったという統計しか出てこない。 社会統計学の原則を大いに逸脱した本というほかない。 なかんずく、第4章「「関係できない症候群」の蔓延」で紹介されていた「投資ゲーム」は、もはや嗤うべしである。 女子高生50人を25人ずつのグループに分けて、その中でペアを組ませ、ゲームをやらせる…って、25人でペアが組めるか(笑)! 一万歩譲って、何らかの方法でペアが組めたとしても、1グループが全体に及ぼす影響は8%である。 統計学的に無視できる数値ではない。 フリーターやパラサイトシングルについても論じているけれど、彼らの経済的背景を探るような態度はまったくなく、ただ母子密着型の子育ての帰結として論じている。 政府も若者の自立支援策にようやく重い腰を上げたし、玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』(中央公論新社)とか宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書)みたいな良書も多く出ているのに。 フリーターの約7割は正社員希望だという統計も出ているのに(内閣府)。 いや、それよりも驚くべきなのは、正高氏が「サル化」を、むしろ歓迎しているということである あとがき。 正高氏は「無責任な観察者」でいたいのであろう。 ヒトの社会に関して書かれた本であるにもかかわらず、そのような態度をとるということは、断じて許されるべきではない。 このような本が売れるということ自体、私にとってはいかなるミステリよりもミステリ的だ。 行動学者の筆者が、ルーズソックス、ひきこもり、パラサイトシングル、携帯依存症などを社会構造の変化による当然の帰結であることを、主にサル社会との比較によってわかりやすく解明します。 なるほどなあ、と、うならされました。 つまり、どの現象にも、「家の外」へ出ることを拒絶する、または、どこまでも「家の中」を敷衍する意識が根底にはあるというのです。 人間は、甘えの許される閉じた「家」で守られて成長し、やがて家から出て社会の中で自己実現していくものとされたが、今日、その時は遅くなってきているというのです。 しかしながら、この本は単なる「だから今の社会は狂っている。 昔の社会はすばらしかったんだ」という懐古本にとどまりません。 賛否両論、分かれると思います。 今回、自分としてはいくつかの不満をもちました。 そこで、自戒の念を込めて、記しておこうと思います。 そもそもタイトルと中身とが一致しているのでしょうか。 文章のタイトルは、その全体にふさわしいものが望まれるように思います。 次に、論証の仕方が気になります。 数十ページ前には、これこれの原因は「〜かもしれない」「〜といえるかもしれない」だったものが、原因は「〜である」と変わっていたりする。 そんな文章はほんとに読みづらいし、意図的じゃないかと不快になります。 さらには、他の部分の確かさ・明らかさにも、かなりの疑問をもたせてしまいます。 さらに、社会の原因を1つに確定しすぎる感があります。 「風が吹けば桶屋が儲かる」的なつながりしか見えてこない。 そんなに簡単に原因が見つかるなら、社会を良くするのは簡単でしょうな、と皮肉めいたことをいいたくなってしまいます。 社会科学は、著者の専攻じゃないしね。 仕方ないよ。 …というのが精一杯のフォローでしょうか。 大学生になって何でもいいから新書を一冊読め、と言われてようやく手に取った。 現代人である私から見れば、この筆者の本筋はやや時代遅れである気がしないでもないが、サル学的観点から見れば、確かに筋が通っているように見える。 実際、何度かふむふむと思わされる点はあったし、最後の少子化の話についても何となく納得できた上、鋭い指摘であるように思えた。 しかし裏切りをためらわないケータイ族みたいな書き方で論じられていた第四章の実験はちと納得がいかなかった。 別にケータイ使ってるか否かにこだわらなくとも、似たような実験結果は得られたのではないかと思ってしまう。 ついでに言えば、この内容に関して「ケータイを持ったサル」という題名で発表するのはどうかと思う。 実際のところ、あまりケータイ自体には触れてないと思うのだよなあ。 行動の背景や問題点の指摘した理由には説得力があり納得できます。 サルの研究者の視点から人間の行動を観察し研究というのが他のコミュニケーション論とは違う点で面白いところです。 IT技術の進歩によりさまざまなコミュニケーション形態が生まれていますが、本質であるコミュニケーション能力は 低下というより退化しています。 退化した形態を研究してみるとサルのコミュニケーションに通じる行動もあるということには驚きました。 昔に比べコミュニケーション手段は増えているのにコミュニケーション能力は低くなったというのは皮肉な結果です。 最近は教育方法についての議論が盛んに行われていますが、IT・英語など実務的学力向上も大切だと思いますがコミュニケーション能力を鍛えるということも考えてほしいです。 実社会にでて最初に必要なのはコミュニケーション能力です。 コミュニケーション豊かな人は世渡り上手な人が多いです。 コミュニケーションについてあまり考えたことありませんでしたけど実は社会生活に密接に関わった重要な能力ということがわかりました。

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