松本 サリン 事件 冤罪。 立憲民主党の新鋭・杉尾秀哉さんは、松本サリン冤罪事件の立役者

立憲民主党の新鋭・杉尾秀哉さんは、松本サリン冤罪事件の立役者

松本 サリン 事件 冤罪

北海道・東北• 東海・甲信越• 近畿・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 松本サリン事件 教団は「真理党」を結成し、90年2月の衆院選は松本死刑囚ら25人の教団幹部が立候補したが、惨敗した。 これを機に教団の「武装化」が進んだとされる。 松本死刑囚は同年4月ごろ、幹部らを集めて「全世界にボツリヌス菌をまく」と無差別大量殺人の計画を宣言。 92年3月には自動小銃、93年6月ごろには化学兵器のサリンの製造を始めるよう幹部に指示した。 教団は同年8月ごろ、サリンの生成に成功し、上九一色村でサリン製造プラントの建設に着手した。 松本死刑囚はサリンを使って創価学会の池田大作名誉会長を暗殺するよう指示したが思い通りにいかず、94年5月には教団を批判していた滝本太郎弁護士の車に噴霧したが、狙ったような効果を得られなかった。 次に標的となったのが、長野地裁松本支部の裁判官だった。 松本市では支部道場建設をめぐって教団と住民が対立し、訴訟となっていた。 地裁支部は仮処分で住民側の訴えの一部を認めており、訴訟でも教団が負ける可能性があった。 松本死刑囚は判決直前の94年6月ごろ、サリンの実験を兼ねて裁判官たちの殺害を決意。 教団幹部7人が同月27日深夜、裁判官官舎から約30メートルの駐車場で改造した「噴霧車」から、加熱して気化させたサリンを送風機でまいた。 裁判官官舎で死者は出なかったが、周辺に住んでいた19~53歳の住民7人が死亡し、約600人の重軽症者が出た。 重症者のうち、河野(こうの)澄子さんは意識不明の状態が回復しないままサリン中毒によって2008年8月、60歳で亡くなり、死者は8人となった。 この事件で長野県警は河野さんの自宅を被疑者不詳のまま、殺人容疑で捜索。 第1通報者だった河野さんの夫の義行さんを犯人視する報道も続き、事件報道のあり方も大きな議論を呼んだ。

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「松本サリン事件」とは 住民8人死亡、600人重軽傷:朝日新聞デジタル

松本 サリン 事件 冤罪

概要 [ ] 原作は、放送部制作のビデオ作品『テレビは何を伝えたか』(第43回ラジオ番組自由部門優勝作品)を元にした、の戯曲『NEWS NEWS』。 に地区で発生したの第一通報者であるに対する「の強引な」と「報道機関の誤報による過熱取材」の実態を描いた作品である。 熊井には、自身の母親が教師を務めていた当時の長野高等女学校(現・)の校長に、河野義行の妻の祖父であるが就任していたという縁があった。 そのため、幼少の頃に河野家に出入りしていた経験から同家の家風をよく知っており、当初より「河野は事件に関わっている疑いが濃厚である」とのマスコミ報道についても「シロ」ではないかと感じていたという。 また、熊井の初監督作品『』での取材経験になぞらえて、犯行は極めて専門的な知識が必要であって「素人」では不可能である点や、確たる証拠がないまま容疑者を自白に追い込む警察の捜査手法が明らかになったことも、熊井を制作へ傾倒させる一因となった。 構想以前から社長のから「社会性が濃厚で、文化的にもレベルが高い作品の構想を考えておいて欲しい」と依頼されていたこともあり、本作品の制作が決定した。 ロケは北深志地区を中心に行われ、の発生源を検証するシーンで使われた池周辺や軒下の撮影は、河野家の自宅敷地内で行われた。 本編では、報道機関の第一通報者に対する取材が誇張されて描かれている箇所がある。 一例として、聴取を終えた第一通報者が警察署から出てくる際に、マスコミに取り囲まれて車に乗り込めないかのようなシーンがあるが、実際は報道陣と警察との間に一定の取材規制が採られており、混乱することはなかった。 ストーリー [ ] 1995年6月上旬、長野県松本市に住む高校生の島尾エミと山本ヒロは、松本サリン事件報道の検証ドキュメンタリーを制作していた。 をはじめとするテレビ局が取材を拒否する中で、ローカルテレビ局「テレビ信州」は取材に応じるという。 報道部長の笹野、そして記者の浅川・圭子・野田の口から誤報につながった原因が語られた。 被疑者不詳の殺人事件として捜査していたは、事件の第一通報者である神部俊夫の自宅を家宅捜索して薬品を押収する。 その中に青酸カリがあったとの警察からのリーク情報から、マスコミは「青酸カリから毒ガスを発生させた」と一斉に報道するが、笹野は過去に誤報を伝えた経験から、裏付けが取れない以上は青酸ガス発生説の報道を取り止めるとの判断を下す。 その後毒ガスが「サリン」と断定。 テレビ信濃では大学教授・藤島から得た「サリンは薬品をバケツで混ぜ合わせて簡単に作ることができる」との証言を放送したが…。 キャスト [ ]• 笹野誠:• 浅川浩司(コージ):• 野田太郎(ノロ):• 花沢圭子(ハナケイ):• 神部俊夫:• 神部の妻:• 吉田警部:• 永田威雄:• 鳥尾エミ:• 山本ヒロ:• 藤島教授:• 大出女医:• 古屋教授:• 鈴木捜査一課長:• 小田営業課長:• 山川刑事:• 神部の長男:• 神部の長女:• 神部の次女:• 佐山記者:• 岡野記者:• 宮本記者:• 柳田記者:• 武山記者: ほか スタッフ [ ]• 監督・脚本:• 製作総指揮:• 協力:、• 音楽:• 音楽補:• 演奏:東京コンサーツ• 撮影:• 照明:• 美術:• 監督補:鈴木康敬• キャスティング:吉川威史• スタント:ナンバーワンプロモーション、オフィスワイルド• 音響効果:• 音楽録音:• タイトル:• 現像:• 後援:、松本市教育委員会• 製作者:豊忠雄• 企画:猿川直人• プロデュース:福田豊治、新津岳人• 製作・配給:日活 備考 [ ]• 本作を出品した2001年の第51回において、熊井は同映画祭の特別功労賞( ())を受賞した。 第11回日本映画批評家大賞では本作が作品賞、遠野凪子が新人賞、製作総指揮を担当した中村雅哉が特別賞を受賞した。 本作において登場する「テレビ信濃」は、映画公開当時の本社(現在は松本総局)が舞台となっている。 脚注 [ ].

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松本サリン事件 河野さんの現在は?死者に信州大学生?

松本 サリン 事件 冤罪

における事件の正式名称は 松本市内における毒物使用多数殺人事件。 教徒らにより、のが散布されたもので、被害者は死者8人に及んだ。 状態にない国において、サリンのようなクラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教によるを除けばその後も類が無い。 また、無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった未遂事件 ・事件でもある。 その背景には、ずさんなを実施したとのなれ合いがあったとも言われる。 では、と並んで オウム3大事件 と表現している。 事件発生 [ ] 1994年から翌日の早朝にかけて、長野県松本市ので、化学兵器として使用されるのサリンの散布により7人が死亡、約600人が負傷した(負傷者は松本市地域包括医療協議会調査での数。 刑事事件のでは迅速化のため負傷者は144名とされ、12月には訴因変更によってさらに絞られ4名とされた )。 事件から14年後の、本事件による負傷の加療中であったの妻が死亡した ためこの事件による死者は8人となった。 オウム真理教が当初目的とした裁判所宿舎とは無関係の 現 寮や一般マンションである開智ハイツや松本レックスハイツにも被害者を出した。 事件直後の犠牲者は次のとおりであった。 35歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡• 19歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡• 26歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡• 29歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡• 53歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡• 45歳男性 1994年6月28日午前2時19分頃死亡• 23歳男性 1994年6月28日午前4時20分頃死亡 事件発生直後は犠牲者の死因となった物質が判明せず、またその物質の発生原因が事故か犯罪か、あるいは自然災害なのかも判別できず、新聞紙上には「松本でナゾの毒ガス7人死亡」という見出しが躍った。 6月28日、は第一通報者であった (こうの よしゆき、 - )宅を、被疑者不詳 のままを行ない、薬品類など数点を押収した。 さらに河野にはとしてその後連日にわたる取り調べが行われた。 また、被疑者不詳であるのに河野を容疑者扱いするによるが過熱の一途を辿る。 真犯人判明 [ ] その後、『』というが、や警察関係者を中心に出回っていく。 この文書は冒頭で「サリン事件は、である」と言及するなど、一連の犯行がオウム真理教の犯行であることを示唆したものであった。 翌(7年)にが発生し、ほどなくでオウム真理教に対するが実施され、以後教団幹部が次々と逮捕されていった。 にはが松本サリン事件前にサリンを製造し渡したと供述するなど、幹部らは松本サリン事件を含め一連の事件がオウム真理教の犯行であることを自供した。 事件に至る経緯 [ ] オウム真理教は長野県松本市に、松本支部道場および食品工場を建設するための土地を取得しようと計画、による県知事への届け出を避けるため、賃貸契約と売買契約に分けて取得した。 しかし反対運動も起き、「株式会社オウム」名義で目的を隠して賃貸契約を結んだという理由でが行われた結果、賃貸契約を取り消され、売買契約部分に支部道場のみを建設し食品工場は諦めることになった。 1992年の松本支部道場開所式で麻原は裁判所、不動産屋、地主を批判する説法を行う (麻原は逮捕後、この説法は理論について語ったものであると弁解している )。 この松本支部道場は、初めはこの道場の約3倍ぐらいの大きさの道場ができる予定であった。 しかし、地主、それから絡んだ不動産会社、そして裁判所、これらが一蓮托生となり、平気でうそをつき、そしてそれによって今の道場の大きさとなった。 また水についても同じで、松本市はこの松本支部道場に、上水道、つまり飲み水を引くことを許さず、また下水道においても社会的圧力に負け、何とか下水道を設置することは目をつむったわけだが、実際問題として普通の状態で許可したわけではない。 …(略)… この社会的な圧力というものは、修行者の目から見ると、大変ありがたいものであるということができる。 しかし、これは修行者から見た内容であって、これがもし逆にその圧力を加えている側から見た場合、どのような現象になるのかを考えると、私は恐怖のために身のすくむ思いである。 — (1992年12月18日・松本道場) サリン噴霧計画 [ ] 地主側は更に売買契約の取り消しも求め、一度は却下されるも、オウムの反社会性を訴えさらに訴訟を起こした。 松本支部は、この裁判の判決言渡しをと指定。 教団のであるは麻原に対し、状況は変わっていないが教団の勝訴確実というわけでもないと伝えた。 すなわち敗訴の可能性が低いにも関わらず、裁判を延期しようとしたことになるため、やは、麻原は裁判の延期云々以前に、サリンの実験をしたかったのではないかと推測している。 準備 [ ] この頃、オウムには第三次を起こすことを目的に、が製造した青色サリン溶液(ブルーサリン)が保管されており 、にブルーサリンを使ってを起こしたが失敗していた。 このブルーサリンが本事件にも使用されることとなる。 頃、麻原は第6サティアン1階に、、、を集め、松本の裁判所にサリンを撒いて効果の実験をしろと指示。 によると、実行日時はで決定された。 村井らは2tアルミトラックを改造したサリン噴霧車の製造を、中川は防毒マスクの製造・予防薬の準備及びサリン噴霧車へのサリン注入を担当した。 新実はで撒いているのを目撃された経験から警察や通行人の対応策を伺い、、、(後に新実とともに自治省所属となるメンバー)を使えとの指示を受けた。 なお、村井は実行メンバーにも参加させることを提案したが、(地下鉄サリンの時とは逆に)麻原が却下している。 、水を使ってサリン噴霧機の試験を実施し 、端本は新実の指示によりに下見に向かう。 遠藤と中川は松本ナンバーのレンタカー(ワゴン車)を借りにいった。 決行 [ ] 早朝、実行メンバーらは都内ので行われた発足式からに帰還。 14時頃、端本らがで作業服などを購入して戻ってくると、端本らに対して新実から「では、説明しておきます。 」「これから松本にガス撒きに行きまーす!」「のワークを邪魔するものはボコボコにして構わない」 、などと軽い口調で作戦が伝えられた。 端本が警備中に戦闘になったら殺してもいいのかと心配すると新実は「いいんじゃないですかあ。 主に闘うのは警官になると思います。 闘っている間に我々は逃げますから、あとはよろしく」と適当に答えた。 夕方、一行は端本が運転し村井が同乗したサリン噴霧車と、富田が運転する護衛部隊のワゴン車に分乗し出発。 によると、この時新実らは教団内の隠語でサリンを指すの歌を車内で合唱していたという。 20時頃、内のドライブインにて新実と村井が相談の上、長野県松本市にある裁判官官舎への攻撃に作戦を変更、電話で麻原の合意を得た。 これはを避けるため高速道路を使わなかったこと 、サリン12リットルの注入に手間取ったこと もあって、到着時間が遅くなり、松本支部は既に閉まっている時間となっていた為であった。 22時頃、裁判所宿舎付近に到着すると、駐車場にてを偽装しつつ村井が噴霧地点を策定、噴霧を決行した。 22時50分頃、サリンが尽き発車。 麻原は、松本サリン事件後にに対して「俺も無差別(殺人)はつらいんだよ。 でもアーナンダ(=井上嘉浩)、の救済のためには仕方がないんだよ」と語ったという。 発覚 [ ] 長野県警がサリン生成に必要なメチルホスホン酸ジメチルの流通ルートを探ったところ、唯一個人購入しているのT. Kという不審な男を発見した。 住所に行ってみるとオウム関連の団体が入るビルであった。 「ベル・エポック」という会社も同薬品を大量購入していたが、これはオウムのダミー会社であることが分かった。 さらに「下村化学」「」「ベック」などの同様のダミー会社も見つかり、オウム真理教のサリン疑惑は深まっていった。 その頃、建設中の第七サティアンの事故により、周辺で異臭騒ぎが発生していた。 長野県警は土壌を採取し、1994年11月、土壌からサリンの最終分解物メチルホスホン酸が検出された。 1995年(平成7年)1月1日、が一面で異臭騒ぎの場所からサリン残留物が検出されたと報じ、怪文書レベルであったオウム真理教とサリンの関係が一気に注目されることとなった。 これに対しオウム真理教は、劇物の処分や薬品購入用のダミー会社の閉鎖など証拠隠滅を急ぐとともに、残留物は地元の肥料会社社長がオウム真理教に対し「攻撃を行った証拠である」と主張。 肥料会社社長を告訴し訴訟合戦となった上、さらにが発生し注目がそちらに向かったこともあり有耶無耶となった。 「地震があったから強制捜査が無かった」と考えた麻原らは、阪神淡路大震災に匹敵する事件を起こすため、を実行することとなる。 冤罪・報道被害 [ ] この事件は、警察の杜撰な捜査や一方的な取調べ、さらにそれら警察の発表を踏まえた偏見を含んだ報道により、無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった未遂事件・事件でもある。 冤罪であると判明したきっかけは地下鉄サリン事件だった。 経緯 [ ] 当初、は、サリン被害者でもある第一通報者の河野義行を重要参考人とし、6月28日にを行い薬品類など二十数点を押収。 その後も連日にわたる取り調べを行った。 この際当時松本簡易裁判所所属であった判事が捜索を発行しているが、本来過失罪で請求するところを、手違いにより殺人未遂罪として発行していた。 長野県警察は河野宅から、それまでに押収したからはサリン合成が不可能であることから、一部の農薬を家族が隠匿したとして執拗に捜査を続け、捜査方針の転換が遅れることとなった。 長野県警は事件発生直後「不審なトラック」の目撃情報を黙殺した。 また、事件発生直後、捜査員の一人の「裁判所官舎を狙ったものでは? 」との推測も、聞き入れられなかった。 マスコミは、一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず、オウム真理教が真犯人であると判明するまでの半年以上もの間、警察発表を無批判に報じたり、河野が救急隊員に「をつくろうとして調合に失敗して煙を出した」と話したとする警察からのに基づく虚偽の情報を流すなど、あたかも河野が真犯人であるかのように印象付ける報道を続けた。 実際は、事件発生当日の1994年6月27日に、河野が薬品を調合した事実はなかった。 また、サリンが農薬であるとする誤解は現在に至っても根強く、農薬の危険性が必要以上に叫ばれる状況を作り出す事件にもなった。 その後も、あたかも農薬を混ぜることによって、いとも簡単にサリンを発生できるかのような発言が続いた。 この発言は、農薬からサリンを生成できるという認識を植え付け、冤罪報道の拡大にも繋がった。 この論調は、特に地元有力地方紙であるにより伝えられた。 に関する戦史・科学史の専門家であるが、「毒ガスの専門家」としてなどのメディアに出演し、「有機リン系の農薬などの薬品が何らかの原因で池に流れ込むなどして,水や水中の藻,微生物などと反応し,神経ガス様のものが発生した可能性がある。 」 「製造方法がわかっているのは原爆も同じだが,はるかに身近な材料で殺人兵器と同じものができてしまうことを見せつけたのが今回の事件だ。 」 などと発言したことも冤罪報道を助長した。 事件の真相が明らかになるまで、河野宅には全国から一般人による多くの誹謗中傷の手紙が送りつけられた。 『』は、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題した記事で、河野家のを掲載した。 河野は「これが一番おかしい、先祖は関係ない」と語っている。 地下鉄サリン事件後も河野は週刊新潮のみ刑事告訴を検討していたが、掲載の約束により取り下げた。 現在も河野は「週刊新潮だけは最後まで謝罪すらしなかった」と語っている。 河野との約束は現在もなお守られていない [ ]。 『』は、サリンを「北朝鮮の毒ガス」として紹介したため、人権団体から抗議を受けた。 冤罪報道の見出し [ ]• 「惨事 なぜこんなことを 数種類の農薬混合か」(信濃毎日新聞 1994年6月29日朝刊)• 「会社員関与ほのめかす 家族に「覚悟して」 薬品20点余 鑑定急ぐ」(信濃毎日新聞 1994年6月29日夕刊)• 「何のための薬品混合? 自宅で処理 化学反応 複数の薬品 発生か」(同上)• 「会社員宅から薬品押収 農薬調合に失敗か 松本ガス中毒」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊1面)• 「隣人が関係 除草剤作りの会社員が通報 松本ガス中毒死」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)• 「毒物と隣り合う暮らしの怖さ」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊社説)• 「雨の深夜、不審な調剤 深まるナゾ 松本ガス中毒死事件」(朝日新聞 1994年6月29日夕刊社会面)• 「素人の調合に危うさ 酸混入でガス 松本ガス中毒死事件」(同上)• 「松本の有毒ガス、調合ミスで発生 長野県警が見方固める」(朝日新聞 1994年6月30日夕刊社会面)• 「ケムシ駆除が目的の可能性 松本の有毒ガス事件」(朝日新聞 1994年7月1日朝刊社会面)• 「松本ガス事故 住宅街の庭で薬物実験!? 会社員宅の押収薬品「殺傷能力ある」」(読売新聞 1994年6月29日朝刊社会面)• 「松本市の農薬中毒事件 通報の会社員を聴取 薬品押収、20点余」(読売新聞 1994年6月29日夕刊社会面)• 「松本の有毒ガス集団中毒 会社員宅から薬品押収 事情聴取へ」(NHKニュース 1994年6月29日7時)• 「松本の毒ガス集団中毒 二十本以上の薬品押収 会社員聴取へ」(NHKニュース 1994年6月29日12時)• 「第一通報者宅を捜索 「薬品調合、間違えた」と救急隊に話す - 松本のガス中毒死」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊1面)• 「「オレはもうダメだ」座り込む会社員、症状訴え救急隊員に - 松本のガス中毒事件」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)• 「前代未聞の猛毒、住民に戦りつ - 松本のガス」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊地方版)• 「納屋に薬品二十数点、以前から収集か 会社員を聴取へ - 松本のガス中毒事件」(毎日新聞 1994年6月29日夕刊社会面)• 「樹木に薬品、効き目なく 「自分で希釈中にガス」 - 松本のガス中毒事件で会社員供述」(毎日新聞 1994年6月30日夕刊社会面)• 「「まさか」「どうして」 松本の有毒ガス事故 惨劇、意外な展開」」(中日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)• 「第一通報者宅を捜査 松本の有毒ガス事故 薬品 数点を押収 捜査本部」(中日新聞 1994年6月29日朝刊1面)• 「松本の毒ガス死 薬品調合中に発生 会社員自宅で調合誤り」(東京新聞 1994年6月29日夕刊11面)• 「松本の有毒ガス事件 会社員宅で物証捜索続ける」(産経新聞 1994年7月4日夕刊11面)• 「会社員今日にも退院 出頭求め本格聴取へ」(産経新聞 1994年7月30日朝刊25面)• 「サリン 解けぬ生成のナゾ 市販薬で合成容易」(日本経済新聞 1994年7月9日朝刊10面)• 「松本 ガス中毒死 「危険な隣人」の正体」(サンデー毎日 1994年7月17日付156頁) 河野義行への謝罪 [ ] 関係者の対応は次のとおりであった。 当時の国家公安委員長は、個人として河野に直接謝罪している。 は、本部長が「」の意を表明したのみで「謝罪というものではない」 と直接謝罪もなかった。 しかし、後の2002年にに河野が就任し、長野県警本部長がかつての捜査について謝罪せざるを得なくなり、初めての謝罪をした。 マスコミ各社は、誌面上での訂正記事や読者に対する謝罪文を相次いで掲載した。 また前述の『週刊新潮』の謝罪は今も行われていない。 なお、報道各社の社員個々人による謝罪の手紙については河野のもとに多数届いたという。 オウム真理教は、へ再編後のに河野に直接謝罪した。 河野義行の長野県公安委員就任 [ ] その後、河野義行は当時の長野県知事によってにおいて事件の教訓を生かすために長野県警察を監督する委員に任命され、これを1期務めた。 しかし、後にの長野県警の捜査ミス糾弾 において、田中知事の意にそぐわなかった ため、 河野は県公安委員を事実上更迭された。 [ ] 「松本サリン事件に関する一考察」 [ ] 事件後に、マスコミを中心に配布された。 警察やマスコミなど各所に送りつけられた。 「一考察」では、の被害者が教団に監禁されていたとき「教団が毒ガス攻撃を受けているから外出は許可できない」と言われたことを教団と毒ガスの接点として紹介。 そして当時聞きなれない言葉であった「サリン」の解説、などに触れ、オウムがサリン製造ないし入手能力を有することと、河野の無罪を主張している。 サリン噴霧の方法についてはと有機溶剤を利用した時限爆弾方式ではないかと推測した。 後述のサリン残留物発見スクープ後の「追伸」では、もしやなどでサリンが撒かれた場合大惨事になりうると警告していた。 この警告は後にとして現実のものとなった。 K」と名乗り、後の怪文書でが可哀想だったから書いたと語る。 「1994年9月某日」となっているがによるとその時期に流通していたという証言は無く、流通開始は1994年12月前後ではと推測している。 また、直接入手したのは、、程度であった。 (にの特集記事でオウムバッシングを最初に始めた)は送られて来なかったことを明言している。 を担当していたは、この怪文書でオウムのサリン疑惑を知った。 時期はよく覚えていないが1994秋だという。 『松本ケース』が何らかの実験的要素を持っていたことは、否定できない。 『解放された空間・オープンスペース』での『結果』が、7人死亡、重軽傷者、200名以上。 もし、これが、『閉ざされた空間・クローズドスペース』たとえば、や巨人戦の行われている東京ドームなどで、サリンが放出されれば、その結果が目を覆うばかりの惨状となることは、容易に想像が付く。 — 『追伸』 執筆者 [ ] 様々な説があるが不明。 筆者が信者や脱会信者かどうかについては、オウム内部に疑心暗鬼を起こさせるために秘密とのこと。 によると、当時ヴァジラヤーナ活動(非合法活動)を知りながら脱会していた人物は2人という。 ただのマニア説 が主張。 マスコミ情報があれば書ける内容であるとする。 例えば「一考察」冒頭のは江川自身がにレポートしていたほか、でも報道されていた。 オウム真理教被害対策弁護団のも世に出ていた情報と化学知識で書けると見ている。 公安説 が主張。 オウム内の公安スパイによる、公安上層部への警告文書であるとする。 対して、「公安のスパイがそんなに知っていたならばも防げたのでは?」との批判がある。 説 、が主張。 では、教団の武装化と変貌に対する古参幹部としての危機感、におけるとの対立により執筆に至ったのではなどとする。 もともとはTBS「」の1995年6月9日放送分が出処だが、番組内では極秘取材ということで特にソースは示されなかったという。 ジャーナリスト・反オウム弁護士説 が主張。 K名義の怪文書が19個確認されている(追伸含む)。 フォントサイズを大きくする特徴がある。 誤字脱字、ふざけた表現や下品な言葉も多い。 のは、文体から見て2人以上が関わっている可能性を指摘する。 引用する新聞は基本的にであり、読売に「一考察」を犯行予告文と誤解され報道された時には抗議文を送っている。 的知識が豊富。 軍事・化学関係から、快特車両(おそらくか)の窓についてまで言及。 消印で怪文書を送りつけるなど 、在住なのか及び横浜駅を通る路線に関してこだわりがあり、知識を披露したり近くの調査に出向いたりしている。 様々な予測や予言をしている。 当たった例としては、、オウムの培養 、など。 逆にを教団の犯行と確信するなど外れたものもある。 、 、オウム含む宗教団体全般、 などに対して批判的。 特に (ママ)、、を敵視。 ただしオウム信者でもやに対しては感情的にならず、早川に至っては「優秀な管理職」と褒めている。 年表 [ ]• 1991年• 6月18日 - 地主に対してオウム真理教であることを偽り、売買部分560平方メートル、賃借部分456平方メートルの土地を取得。 4階建て1600平方メートルの食品工場と事務所の建設を計画。 9月12日 - 地元住民側に事業者がオウム真理教であることと、その計画が判明する。 10月29日 - 松本市がを許可。 10月 - 反対する地元住民が対策委員会を設置。 12月9日 - 教団側が建築妨害禁止のを求めて提訴(1992年1月17日却下)• 12月10日 - 地主側が建設阻止の仮処分を求めて提訴(1992年1月17日決定)• 1992年• 2月12日 - 教団側が2階建て560平方メートルの支部道場の建築確認を申請。 (3月23日許可)• 5月27日 - 地主側が・賃貸契約無効との明け渡しを求めて。 (7月22日第1回公判)• 12月18日 - 松本支部道場開所。 1993年• 8月 - 、サリン合成成功。 1994年• 2月 - 青色サリン溶液製造。 5月10日 - 土地明け渡しが結審。 6月20日 - 麻原、サリン攻撃を指示。 6月27日 - 松本サリン事件発生。 7月19日 - 長野地方裁判所松本支部の担当裁判官が負傷のためを延期。 ? - 「松本サリン事件に関する一考察」流通。 1995年• 4月14日、5月2日、5月16日 - 松本支部道場に強制捜査。 7月26日 - 松本支部道場閉鎖。 関連書籍 [ ]• 河野義行 『「疑惑」は晴れようとも - 松本サリン事件の犯人とされた私』 文藝春秋〈文春文庫〉、。 河野義行 『松本サリン事件 - 虚報、えん罪はいかに作られるか』 近代文芸社、。 河野義行 『命あるかぎり - 松本サリン事件を超えて』 第三文明社、、。 『オウムの黒い霧 - オウム裁判を読み解く11のカギ』 双葉社、。 林直哉、放送部 『ニュースがまちがった日 高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年』 太郎次郎社、。 これを題材とし、『』(監督:)として映画化された。 『松本サリン事件 - 弁護記録が明かす7年目の真相』 明石書店、。 『オウム法廷 グルのしもべたち下』。 - p. 131に周辺地図。 『オウム法廷7』朝日新聞社、。 - p. 80にサリン噴霧車の構造図。 『宝島30』編集部・岩上安身『オウム真理教=サリン事件怪文書』、1995年8月。 磯貝陽悟 『推定 有罪 あいつは・・・・・・クロ 松本、地下鉄サリン~オウム密着2000日 事件現場最前線は』 データハウス、。 この事件を扱った作品 [ ]• 映画『』(2000年)• テレビドラマ『』(2009年)• - 「サリン」• 脚注 [ ]• 逮捕・起訴はされていないので、厳密には冤罪に該当しない。 (2015)「」• 降幡賢一『オウム法廷6』 p. 入院先のにて、事件以来意識を回復させることなく死去した。 死因はサリン中毒によるが原因の呼吸不全である。 彼女は同年6月時点ですでに余命3か月を言い渡されており、危篤の連絡を受けた夫の見守る中、静かに息を引き取ったとされる• 2014年6月30日1時放送'14「足跡 松本サリン事件20年」• 朝日新聞朝刊 1995年5月17日付1面• オウム真理教公式サイト(Internet Archive)• 、『私にとってオウムとは何だったのか』2005年 p. 197、降幡賢一『オウム法廷12』 p. 196• 東京キララ社編集部『オウム真理教大事典』 p. 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち下』 p. 125• 降幡賢一『オウム法廷4』 p. 263• 青沼陽一郎『オウム裁判傍笑記』 p. 238• オウム裁判対策協議会• 降幡賢一『オウム法廷9』 p. NHKスペシャル取材班「未解決事件 オウム真理教秘録」 p. 126• NHKスペシャル取材班「未解決事件 オウム真理教秘録」 p. 129• 井上順孝『情報時代のオウム真理教』 p. 238• 著名な家のは、「某有名私大の学生が自宅の庭で殺虫剤からサリンを合成した」という全く虚偽の事件を著書の中で記述するに至っている(大日本絵画『武器と爆薬』112ページ)。 『「オウム真理教」追跡2200日』 p. 255• 「週刊朝日の記事で抗議」(読売新聞1994年7月6日朝刊31面)• 1995年6月の会見にて。 他殺死体を自殺事件と断定したが、のちに覚せい剤所持等の別件で逮捕された犯人の任意の自白により殺人事件と判明。 長野県知事室. 2003年12月19日. の2004年2月4日時点におけるアーカイブ。 2013年11月9日閲覧。 田中知事は冤罪被害者である河野に、長野県警への糾弾を希望したのだが、この時の河野は私情を差し挟まず、当時の捜査において他殺と断定できなかった経緯は不明であり、長野県警への責任追及の機会を与えようとしなかった。 毎日新聞 1995年7月6日朝刊• NHKスペシャル取材班「未解決事件 オウム真理教秘録」 p. 144• , p. 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p. 288• 122• 産経新聞 1995 10月16日夕刊、毎日新聞 1995年5月2日朝刊• 1995年5月30日• , p. , p. , p. , p. , p. , p. , p. , p. , p. ただし密造との予測に対して実際にはだった• , p. , p. , p. , p. , p. , p. 『オウム真理教反対運動のあゆみ』より 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 警察庁• NHKクローズアップ現代.

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