紫式部 について。 紫式部の源氏物語って何?5分で知る偉人!│れきし上の人物.com

紫式部についてのレポート

紫式部 について

「源氏物語」について 源氏物語は、平安時代中期1000年頃に、作者・紫式部によって書かれた世界最古の長編小説です。 その内容は、帝の御子でありながら源氏という臣下(ただ人)の身分に落とされ、皇位継承権を失った皇子(光源氏)の王権復活の物語で、当時の王朝貴族の華やかなりし時代を背景に語られています。 その構成は大きく3部に分かれ、全54 帖からなります。 原作より百年以上後の「源氏物語絵巻」国宝・隆能源氏の詞書が4巻のみ残っているだけで、巻物にして徳川美術館の3巻分と五島美術館の1巻分だけです。 これらは原作を一部伝える物ですが、完璧な文章ではありません。 現在、私達が読む源氏物語は、鎌倉時代の初期の写本で、藤原定家(1162〜1241)の「青表紙本」と、もうひとつは、源光行・親行のまとめた「河内本」が元となっています。 すなわち、紫式部が書き上げた2百年後の写本を読んでいるのです。 (参考 : 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵) しかし一千年前のこれらの文体は、我々の教科書にも取り上げられていましたが、難しい文法に捕らわれ過ぎて、華やかに繰り広げられる王朝貴族の栄華物語を理解するには大層難解なものでした。 しかし明治以後、現代語訳「源氏物語」が多数でました。 今や「源氏物語」は国民的愛読書と言っても過言ではないでしょう。 徳川美術館・・・国宝源氏物語絵巻の「柏木」「横笛」巻を所蔵 名古屋市東区徳川町1017 電話・052ー935ー626www. cjn. 父は越前や越後の国守を歴任した受領・中流貴族の藤原為時といい、生母は藤原為信の娘で、幼少のころ死別したようです。 結婚は27才位の時で、夫は藤原宣孝(のぶたか)という20才も年上の人でした。 宣孝は自己顕示欲の強い派手な性格で、相当な色好みで妻も三人おりました。 28才で娘・賢子を産みますが、僅か3年で夫と死別します。 夫の死後、時の最高権力者・藤原道長(966 〜1027)の娘彰子(しょうし)の女房として宮仕えし、源氏物語の執筆を始めました。 「紫式部日記」には「一条天皇の中宮・彰子が敦成 (あつもり)親王を出産した御祝いとして献上された本である。 」と書かれています。 紫式部は当時の女性としては珍しく漢学の素養があり、宮仕えをして体験した宮中生活を女性の目を通して描いたのでしょう。 源氏物語を書き上げた後の紫式部の消息は、ほとんど残っていませんが、一人娘の賢子は、後に後冷泉天皇の乳母となり、政府高官の典侍を経て、遂には上流階級の従三位の位階まで昇りつめました。 紫式部が生まれ育った邸の跡が、今も京都に残っています。 京都市右京区北之辺町にある廬山寺(ろさんじ)の境内が邸跡とされています。 紫式部が葬られたとされる墳墓は京都市北区の紫野にあります。 堀川通りの陰にひっそり隠れた苔むす塚は、晩年の頼りなさを伝えているようです。 没年についても、長和3年(1014)とも寛仁3年(1019)とも言われて、はっきりわかりませんが、42・3歳の生涯だったとされています。 小倉百人一首に紫 式部 の歌が選ばれている。 (新古今集) めぐり逢いて 見しやそれともわかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな (訳) 久しぶりにお逢いしましたのに、貴方かどうか見分けのつかない内に 急いでお帰りの貴方は、雲に隠れてしまった夜半の月のようです。

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源氏物語ミュージアム@京都・紫式部ゆかりの地『笑ってコラえて』で紹介

紫式部 について

日本の文学の歴史の中でも知名度が非常に高く、なおかつ海外でも高い評価を受けているものに『源氏物語』があります。 主人公光源氏の栄光と苦悩の生涯や恋愛、その子供たちの悲哀がテーマとなっている『源氏物語』ですが、その「源氏物語」の作者が紫式部です。 古典や歴史の教科書に登場する有名な人物である紫式部ですが、紫式部のお墓がどこにあるのかについてを知らないという方も多いのではないでしょうか? そこで今回は、終活に取り組んでいるかたや、歴史や文学に興味のある方向けに、 紫式部のお墓について以下の各ポイントに沿って見ていきましょう。 あわせて、紫式部のお墓の隣で眠る小野篁(たかむら)との関係などについても触れていきます。 まずは、 紫式部という人物や生涯について簡潔に見ていきましょう。 紫式部は 平安時代中期、10世紀から11世紀にかけて活躍した女流作家・歌人です。 紫式部が生まれた家は、藤原氏一族でも学問に通じた家として有名でした。 紫式部は、幼いころから中国の書物に通じていたことから才女として知られていました。 その才能が買われて1006年には当時、非常に大きな権力を握っていた藤原道長の娘で、天皇の后でもあった彰子(しょうし)に教育係として仕えることになりました。 紫式部の代表作である『源氏物語』はこの時期に執筆されたものです。 紫式部の晩年については今でも謎に包まれておりますが、紫式部は彰子に仕えたまま一生を終えたといわれています。 なお、宮廷女官としての時期にほかにも『紫式部日記』を書き、すぐれた短歌も残しています。 紫式部のお墓はどこにある? また、「終活ねっと」のお墓探しでは、著名人が眠る墓地・霊園を探すこともできます。 ぜひご利用ください。 紫式部のお墓はどこにあるのでしょうか? 『源氏物語』の作者であり、優れた女流歌人として有名な紫式部ですが、紫式部のお墓の場所については案外わからないという方も多いと思います。 実は紫式部のお墓は 京都にあり、一般の方でもお参りすることができます。 また 栃木にも紫式部のお墓とされているものが建てられています。 ここでは紫式部のお墓の場所について詳しく見ていきましょう。 紫式部墓所は京都にある 紫式部のお墓は「紫式部墓所」と呼ばれています。 紫式部墓所は京都にあることで有名です。 この場所は、かつては蓮台野と呼ばれ、紫式部が生きた時代にはすでに貴族のための墓地が設けられていました。 さらに、墓所の近くには、紫式部が晩年に住んでいたという大徳寺所属の建物である雲林院がありました。 紫式部の晩年の居住地に近かったこともこの墓地にお墓が建てられた理由の1つですが、より大きな理由としてはこの後に触れる小野篁の関係が挙げられます。 (詳しいことは後述します。 ) 紫式部の墓所の中には、紫式部のお墓や石塔のほかにも、紫式部の功績をたたえる顕彰碑や、紫式部の生涯や功績について解説するための小屋があります。 このため、 紫式部墓所は、紫式部の生涯などについてについて詳しく知るうえではうってつけといえるでしょう。 ちなみに、現在では大手メーカーの島津製作所の紫野工場の敷地内に位置していますが、同社の工場とは区切られた区画となっていることから普通にお参りすることは可能です。 墓所の管理は地元の顕彰会が行っています。 栃木にも紫式部のお墓がある!? 実は紫式部のお墓があるのは京都だけではありません。 紫式部とは一見関係ないように見える、関東地方の 栃木県にも紫式部のお墓があるとされています。 場所は 栃木県下野市の天平の丘公園の敷地内で、凝灰岩でできた五輪塔という形で建てられています。 そして、この公園の所在地一帯が「紫」と呼ばれていることから、朝廷に仕えた一流女流作家である紫式部のお墓ではないかといわれています。 ただし、このお墓そのものの建立年代は不明であることから、実際に紫式部がここに埋葬されたかどうかの真偽すらも謎です。 以下の記事ではたくさんの有名人が眠る多磨霊園について解説しています。 多磨霊園には小説家で有名な江戸川乱歩や政治学者の吉野作造などが眠っています。 紫式部以外の有名人のお墓についても知りたい方は、ぜひ参考にしてみてください。 先ほども触れた、京都にある 紫式部墓所には小野篁のお墓もあります。 このように見てみると、紫式部と小野篁は夫婦もしくは恋人の関係にあったのかと考える人もいるのではないでしょうか? ここでは 紫式部と小野篁のお墓が隣り合っている理由についても見ていきましょう。 小野篁とは 小野篁は 平安時代前期、9世紀前半に活躍した貴族・歌人です。 特に歌人として、優れた漢詩や短歌を多く残した人物です。 その優れた学識は当時の律令の解説書であった「令義解(りょうぎのげ)」の編纂を担当したり、皇太子の教育係を務めるなどでいかんなく発揮されました。 一方で反骨精神が旺盛な性格だったために嵯峨上皇の怒りを買って流罪になったこともありましたが、生涯にわたって天皇から篤く信頼されました。 彼についてはその偉大さからさまざまな伝説や逸話が存在し、中には昼間は官吏として政務に励み、夜は閻魔大王を補佐する役回りを果たしていたとするものもあるほどです。 なぜ小野篁のお墓が隣にあるのか それでは、 なぜ小野篁のお墓が紫式部のお墓と隣り合っているのでしょうか? 小野篁は紫式部の時代より1世紀も前に生きているのでその理由がとても気になりますよね。 これには先ほど触れた、小野篁が夜間に閻魔大王の補佐をしているという伝説の存在が大きく関係しています。 紫式部は『源氏物語』の作者として有名ですが、「源氏物語」の内容によって多くの人々が惑わされたということで、紫式部は死後に地獄に落ちたという風聞が流れました。 そこで『源氏物語』の愛好家たちがこれでは忍びないと考え、すでに建てられていた紫式部のお墓を小野篁のお墓の隣に移動させたうえ、亡き小野篁の執り成しで紫式部の罪を閻魔大王に許してもらうために祈りを捧げました。 そして、その祈りが通じたためか、紫式部が地獄から解放されたという言い伝えがあるためです。 なお、紫式部の墓所は紫式部が亡くなったころから特定の神社や寺院が管理していたわけではありませんが、それは紫式部があらかじめ地獄に落ちるものと考えられていたためとされています。 京都にある紫式部ゆかりの地 優れた才女として活躍した紫式部の生涯を物語る場所は、紫式部の墓所以外にも、京都市中のあちこちに存在します。 京都にある紫式部ゆかりの地を順番に見ていきましょう。 まず、紫式部が生まれ育ったとされる一帯にあるのが 雲林院で、紫式部の墓所の北に位置しています。 ここには紫式部が生まれた際に使った産湯の井戸があるうえ、『源氏物語』の作中でも雲林院が登場します。 また、紫式部が住んでいた邸宅があったとされているのが、京都市上京区にある 廬山寺です。 境内には「源氏の庭」と呼ばれる一角があり、そこには邸宅跡の碑や紫式部が詠んだといわれている歌の歌碑が建てられています。 紫式部が活躍した場所として非常に有名なのが、かつての皇居であった 京都御所です。 皇后であった彰子に仕えた時期、紫式部は教育係として彰子にさまざまな教育を施しました。 最後に 野宮神社は、『源氏物語』の中で光源氏と六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)の別れの場面の舞台として有名です。 紫式部のお墓まとめ• 紫式部とは 紫式部は平安時代中期に活躍した女流作家・歌人で、紫式部の代表作として有名なのが『源氏物語』である。 紫式部のお墓はどこにある? 紫式部の墓所は京都市北区にある紫式部墓所で、敷地内には紫式部を埋葬したお墓や石塔、顕彰碑、さらに紫式部の生涯や功績を説明するための小屋が建っている。 栃木にも紫式部のお墓とされているものがあるが、こちらについては真偽のほどは不明である。 紫式部墓所には小野篁のお墓もある 紫式部のお墓の隣には平安時代前期の貴族・歌人の小野篁のお墓が建てられている。 これは、紫式部が死後に地獄に落ちたという風聞を聞いた『源氏物語』の愛読者たちが、閻魔大王の補佐をしていたという小野篁の仲介で紫式部を地獄から解放してもらおうと祈るために紫式部のお墓を移転したことによる。 京都にある紫式部ゆかりの地 京都市中で紫式部の生涯を物語る場所としては、京都御所や雲林院、廬山寺、野宮神社などが挙げられる。 『源氏物語』の作中のさまざまな場面にもこれらの場所が登場する。 平安時代のみならず日本の文学史にも大きな足跡を残した紫式部の墓所が京都市内のひっそりとした場所に建てられていることや、神社や寺院が管理していない理由には深い背景があることがお分かりいただけたのではないでしょうか? 楽しく旅をして余生を送るというのも終活の一環として有意義なことです。 京都に立ち寄った際にはぜひとも紫式部の墓所にも足を運んでみて、紫式部の生涯や足跡に思いをはせてみてはいかがでしょうか。 最後までご覧いただきありがとうございました。 以下の記事ではお墓参りのマナーについて解説しています。 有名人のお墓参りをする際にも参考になる内容となっていますので、ぜひあわせてご覧ください。 カテゴリーから記事を探す• 関連する記事•

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枕草子の作者 清少納言について簡単解説!紫式部や定子との関係は?

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